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2009/11/29 13:43

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教科書にのっていなようなペリーについての事実を

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日本の教科書では、日米の交流はペリーの浦賀来航が最初と謳われています。 しかし、これより62年(1791年・寛政3年)も前に、米国人ジョン・ケンドリックが米商船「レディ・ワシントン号」と「グレイス号」の2隻にて、紀伊大島の樫野に来航し、通商を申込みました。 2隻のうち、「レディ・ワシントン号」にプライバティア(国代表としての資格)が与えられていました。 ケンドリックの一行は、当初の計画から交易という明確な目的をもって紀伊大島に寄航しました。 住民に警戒心を与えないために「漂着」と装ったことや、毛皮の貿易を申し込んだことが書簡や公文書などから明らかになっています。 現在も、日本は「漂着」として解釈しているため、日本の教科書に掲載していません。 米国では、これを史実としてとらえられており、ワシントン州では「レディ・ワシントン号」の再建造され、ジョン・ケンドリックの旧宅が「ケンドリック記念館」として公開されています。 日本では、和歌山県に、これを記念する日米修交記念館があります。 http://www.za.ztv.ne.jp/ooshima/05.sogo.nichibei.html ●ジョン・ケンドリックに関する和書↓ http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1489-2.html

先の回答にある白旗についてはちょっと・・・ 「白旗伝説」は根拠となる文書が偽書扱いらしいです。 私の記憶ではペリーは、白旗を掲げた舟は国際法に より保護されることを教えて、日本の使者に白旗を与え て、以後使用するようにすすめたそうです。 ところが、幕府はオランダを通じてこの白旗については 知っていたそうで、気に障ったようです。

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2009/11/29 23:45(編集あり)

先に回答されている方以外のものとして 日本を開国させたのはペリー提督ですが、彼には前任者がいたことはあまり知られていないようです。 アメリカ政府はまず、遣日特使として海軍大将・ジョン・オーリックを派遣することに決定していました。東インド艦隊司令長官に就任したオーリックは嘉永4年(1851)、軍船サスケハナ号に乗り込み、アメリカ東海岸を出発しました。 しかし、出港して間もなく、オーリックはサスケハナ号艦長と感情的なトラブルを起こしてしまいます。もともと彼には性格的に問題があり、部下ともうまく折り合えませんでした。このためアメリカ政府は司令官の交代を決定。翌年初めに罷免しました。この前任者の罷免により、代わりに指名されたのがオーリックの先輩であるペリーであり、彼が日本開国の栄誉を手にしました。ただ、実はペリーは日本行きに不満だったという説があります。 ペリーは日本の男女混浴の慣習に愕然としたそうです。 「ペリー提督日本遠征記」によると、前も隠さずあっけらかんとした湯屋での入浴風景に、ペリーはかなりのショックだったようです。アメリカ人にとって人前で裸を見せるのはタブーでしたので。「日本人は道義がすぐれているのにもかかわらず、疑いもなく淫蕩な人民だ」と断じています。 ペリーは日本に贈った土産物にかなりの優越感を感じていました。 アメリカ側が持参した電信機と汽車模型は、かなり日本人の興味を引きました。汽車模型は四分の一の大きさで、大人が乗るのにはやや無理のある大きさでしたが、円形の線路を走らせたところ、幕府の役人がおっかなびっくりで客車の屋根にしがみつき、アメリカ人は大笑い。ペリーは「半開国民に対する科学と企業との成果の勝利に充ちた啓示であった」と優越感を露にしています。 ペリーは我慢強い? 日米和親条約締結後、ポーハタン号で船上パーティを開いたときの出来事です。幕府儒者の松崎満太郎は初めて飲む外国の酒に酔っ払ってしまい、すっかり泥酔状態に陥り、何とペリー提督に抱きついて、何やら「日本とアメリカ、心は同じ(英訳では(Nippon and America all the same heart)」というような意味の日本語を繰り返したといいます。しかもペリーの新品の肩章を潰してしまったといいますから、よほどしつこくじゃれついたのでしょう。それに対して、ペリー提督はじっと我慢していたといいます。 アメリカ人より体格が劣っていたことを実感した日本人は、アメリカに献上品を与える際、その運搬係に力士を動員したといいます。体格の良さを誇示したかったのでしょう。この体型と怪力にアメリカ人たちは非常に驚き、「モンスター」「相撲レスラー」と呼んだそうです。また日本とアメリカの会食に日本食が出され、その中にタケノコの煮物がありました。アメリカ側に出されたものは生育しきった竹だったので硬くて食べられなかったのですが、日本人は平気で食べている(柔らかい若竹なので食べられましたのはいうまでもない)に驚き、日本人はどうしてこんな硬いものが食べられるのか、と不思議がったそうです。これは当然日本側のうっぷん晴らしだったと思いますが。(このタケノコの逸話は相当昔に読んだ本にあり、いきさつはこんなふうだったと思い出したので紹介しました。)