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室町時代に発生したわが国のタイランというべき応仁の乱では、 朝倉氏の活躍ぶりが目を引いてたようで 当時の朝倉氏当主の孝景は
室町時代に発生したわが国のタイランというべき応仁の乱では、 朝倉氏の活躍ぶりが目を引いてたようで 当時の朝倉氏当主の孝景は 「西国の暴れん坊」などと東西両軍の諸将から恐れられていたようだけど、 それほど当時の朝倉氏の戦場での強さは抜きんでていたものですか。 もともと西軍に居たけど東軍に寝返ったのは 東軍側が朝倉氏の強さに目を引いたための調略というもので 朝倉氏側も「越前国主に任命」という調略条件が多大なる好餌だったものですか。 思えば、応仁の乱が終わった後の越前は朝倉氏による支配が進んでいったものだけど、 朝倉氏の戦場での強さや当主である孝景が有能というだけじゃなく、 上記した調略条件が朝倉氏による越前支配のための大義名分にもなったので、というものですか。 朝倉孝景については 「西国の暴れん坊」の他には「朝倉氏中興の祖」とか「下剋上の先駆者」も言われたほどで、当時では越前の英傑とみなされていたと思われるけど、 配下の諸将からはもちろん、越前国の民衆にとっても、というものですか。 もちろん、現代でも福井県の方々にとっては、地元の英傑と尊称されているものですか。 歴代の朝倉氏当主の中で孝景ほど高名なる扱いを受けているのはいないと思えることや、肖像画がしっかりと残されていることからも、大いにうなづけるものですか。
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