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カント哲学について質問です。私は、ほとんどこの道に見識がないのですが、カントの義務論的主張を聞き、ひとつ理解できない部分があります。

哲学、倫理39閲覧

回答(4件)

>何を基準に構築すれば良いと彼は考えたのでしょうか? そんな基準なんかない、とゆーのがカントの基準です。

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カントの倫理学の動機の一つは、「善行の名の元に行われる、実際には間違った行為」を指弾することです。宗教的権威のもとに個人の自由な考えが軽視され、「正しい」とされることが一方的に押し付けられたり、感情的な判断が一部の人々を苦しめたりする当時の社会の理不尽が、カントの倫理学の念頭にありました。 そのような中で、理性による道徳判断にこだわることこそが、唯一の正しい道だというのがカントの主張です。数学の問題の答えはただ一つであり、時間をかければ誰しもが答えに納得することができると考えられています。このような絶対的な正しさや、普遍的な法則性を認識する能力が人間には必ず備わっていて、この能力を理性と呼んでいます。カントは、道徳の普遍的な法則を人々が認識し、その法則に従って行動することで、身近な生活での正義はもちろん、世界平和が実現すると考えました。 このような目論見からわかるように、道徳的な意思決定において「正義の感情」や「場当たり的な解決」を避け、「普遍的な法則」を重視して行動するという点が、カントの倫理学の最も重要な考え方です。ですから、カントの倫理学は「他の人にとって正しいことがあれば、それを行わなくてはならない」ことを意味しているのではなく、「誰にとっても正しいことを行わなくてはならない」という考えだと言えます。 次に、カントの倫理学の特徴は、「他人を利用すること」の徹底的な否定です。カントの倫理学においては、全ての人は、理性をもつ存在という点で平等であり、「より重要な人」や「より優れた理性」を優先するという考え方はありません。理性があるかないかが重要なのであり、理性があるものは等しく人間として尊重されます。このような考え方から、「利用する人」「利用される人」の立場によって善悪の見方が変わるような考え方は、普遍的な道徳の法則として成立する余地がないものとして、絶対的に誤っているとみなされます。「嘘をついてはいけない」と言う法則は、「他人を自分の意のままに動かす存在として利用してはいけない」という考えの一面として述べられたに過ぎません。 とはいえ、あまりにも正直すぎると、実際には混乱が生じることが想定されます。カントは啓蒙主義を強く支持し、人々が真実を正しく扱えるよう理性を教育し、普及させることに関心がありました。嘘によるその場しのぎの解決ではなく、理性の普及による本質的な解決こそが未来であるという、壮大で前向きに考え方が、カント倫理学を支えています。 カントの倫理学において、「何が正義か」というのは事前に明らかなものではなく、探求すべき対象であるという態度があります。自然科学において、「実験をして検証する」という態度が諸知識の基礎として重視されているように、「理性を平等に扱う」ことが道徳探求の基礎として重視されています。カント倫理学は「善悪を明らかにする」よりも、「最低限のルールを絶対に守る」ことを優先しています。功利主義とカントの倫理学は対立する概念として紹介されることかありますが、このような目標やアプローチの違いに根ざすものであり、両者の考え方が矛盾しているわけではありません。

> では、そもそも正義は何を基準に構築すれば良いと彼は考えたのでしょうか? ご自身で「カント哲学における正義の基準は「正義の原理」で、他人にとって正しい行為は自分も行わなくてはならないとする主張だと理解しています。」と仰せになっています カント哲学は功利主義ではありませんから「功利主義と矛盾するカント哲学においてこれを基準に何が正義かを定義することは不可能」なのは当然です