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ブッダって結局なにもしない人ですよね? 悟りを開くために1日の大半を瞑想に費やしていたそうですが、 ブッダの時代は、みんな生きるために働いていたのではないですか?

宗教 | 哲学、倫理296閲覧

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回答(18件)

お釈迦さまの言う「自由」とは、自分の中にある「こだわり」から解放されることです。あなたから見れば、みじめな生き方に見えるかもしれませんが、お釈迦さまにとって、そこには何のみじめさもないのです。なぜなら「こだわり」がないからです。

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生き方、考え、話す中身、分かる事、全てに価値があったのかなと思います。 だからこそ人が意見を言い、話を聞きに行った。そしてその影響力。 途轍もない。

我々の日常生活は物質的な次元の世界にあります。 この世界のことは人間の思考で知るということになりますが、逆に言うと、我々は思考という限定された世界しか知らないわけです。 この宇宙の95%は、私たちがまだ知らない成分でできていることがわかっています。 ここで、この宇宙は物質的な次元の世界だけである、と考えるのは無理があります。 はっきり言って、宇宙が何でできているのかは全く分かっていないのです。 煩悩や執着を手放して自由になれと説く、というのは、我々の社会での自由とは関係ないのです、我々の社会での自由は物質的な世界という束縛された中にあります。 プラトンの洞窟の例えでは、私たち人間は洞窟の中に住んでいる囚人のような存在だと言っています、私たちが平和だと思っているこの暮らしそのもののことを。 ブッダの自由というのは、この物質的な世界を超えた、次元の違う宇宙空間のことを言っているのです。 「ホームレス同然になったブッダは自由なのですか?」、とあります。 これも我々の社会、この物質的世界の中だけで考えるから出てくる言葉です。 ブッダは肉体を持ってますが、肉体だけの存在ではありません、解脱という言葉を聞いたことがあると思いますが、その肉体を脱した、完全自由なる存在です。 それは、我々のこの物質的世界を超えた、次元の違う全宇宙(物質的宇宙ではない)としての存在です。 全宇宙を身体にしているのです。 孫悟空で、悟空が筋斗雲で飛んでいって、その先に5本の柱が見えた、悟空は「ここが世界の果てに違いない」と考えて、柱に勝手に名乗っていた「斉天大聖」と書いて帰ってきた、ところがお釈迦様は「お前は、私の手のひらから出ていない」と言って、自分の指を見せた、というのがあります。 これは創作ですが、しかし「この次元の違う全宇宙としての存在」を正しく表しています(夢物語のようですが、夢物語でもないのです)。 我々には宇宙は自分の外側にあります、しかし悟った人には、宇宙は自分の内側にあるのです、悟った人に外側はないのです。 これが本当の自由です。 「恵がなければ死ぬ訳ですから」、とか、「安心安全を手に入れたのでは」、とあります。 これも、もう肉体だけの存在ではなく、宇宙的な存在なのでブッダに生死はありません。 ブッダにとって肉体の死は意味がありません。 世間的な安心安全も、ブッダにとっては意味がありません。 我々は、自我として生きているので、肉体が消えたら虚無を考えます、ここに恐怖があります、次元の違う世界があることに気づきません。 「人間の本質って、結局、時代に適応する事ではないでしょうか?」 我々の社会生活のそれぞれの時代背景において、その時代に適応して、お互いに協調しあって生きていく、それが正しいあり方だと、それはそう思います。 しかし、人の人生を考えたときに、いくら豊かで楽しく生活できても、人は皆、不安を持っていることに気づきます、この不安は誰にでもあります、この不安は本人でも原因がわかりません。 それで、楽しいものを求め始めます、一生懸命仕事をすることもそうです、趣味に打ち込むこともそうです、スポーツ選手が一位を目指すのもそうです、これらはみな人が持っている不安からの逃避です、逃避は無意識レベルですが、本人は逃避などとは思っていません。 それで、その中の一部の人になると思いますが、この社会には救いがないことを知るのです。 仏教からみると、この物質的な次元の世界からの超越を目指さない人は、一般社会でいくら立派に生きていようと、道徳的に高い人でも、自我を認めている以上、迷いの衆生となるのです。 結局、いくら正しく協調しあって生きても、人間は個々で生きてます、人間の根源的な苦(生老病死)は自分で決着するしかありません。 この人間の根源的な苦は、自分が悟りの世界に入るしかありません。 禅語に「生死事大、光陰可惜、無常迅速、時不待人」とあります。 人間にとって死の問題の解決ほど重要なものはありません。 自分にとって死は存在しない、というところをつかむためには、時間を惜しまなくてはならないということです。 そのために、世間のことに時間はとれないということです。

ブッダはもともと親が金持ちのボンボンだからね

釈尊(しゃくそん)は、人々を救うため50年間にわたって説法し、その最後の8年間で出世の本懐(目的)である法華経(ほけきょう)を説かれました。 【動画】真実の仏教 https://www.youtube.com/watch?v=opReWraWnjg