もしも邪馬台国の場所が判明したら、 どのような日本史研究にどのような 影響があるのでしょうか?

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お礼日時:2024/12/24 20:34

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>もしも邪馬台国の場所が判明したら、 どのような日本史研究にどのような 影響があるのでしょうか? 特に凄い事は起きません。 古代日本及び中国や朝鮮など含め、歴史事実が確定されるという事ですね。 また、面白いもので、この時代の以前や以後の新たなる謎において、 解明等の夢やロマンが広がっていくという事ですね。 例えば、 古代日本最大の謎、ミステリーの双璧とされる空白の150年の、 近畿ヤマト王権の倭の五王時代論争など、 次の古代日本の歴史論争が広まっていくという事ですね。 そして、確実に古代日本の歴史解明につながっていくものという事です。 ただし、江戸時代以降の邪馬壱国論争に終止符が打たれれば、 世間では、一時期は大騒ぎになる事でしょう(笑) 尚、 令和現在においての邪馬壱国論争とは・・・ これまで、有力とされていた畿内説が否定証明された為、 北部九州地域においての複数候補地による比定地論争、ということです。 この事の、事実を理解認識する必要があるという事ですね。

魏の使者が朝鮮半島から北九州に上陸したのは確実でしょう。なので、そこから「女王卑弥呼が住む」邪馬台国の首都までの道筋は、邪馬台国の支配下または連立友好国であったはずです。 なので、邪馬台国が畿内なら、この時代に少なくとも北九州から瀬戸内、畿内までが統一政権のもとにある、ということになります。 邪馬台国が北九州ならば、まだ地方政権に過ぎない、この時代に畿内やそのほかの場所にそれぞれ地方政権が独立してあった、ということになります。 つまり、三世紀の日本列島がどのような勢力分布だったか、国の統一がどの程度進んでいるか、というのが、邪馬台国がどこにあるかで違ってくるわけです。 また、九州であった場合は、邪馬台国が大和朝廷になったのではない、全然別の国である、という可能性も出てきます。 「名前が似ている」というだけで「邪馬台国=大和朝廷」と決めてかかるのは禁物です。 もちろん神武東征という神話のモデルになった事件が実際にあったのだ、という説明もできます。 これだってひとつの推測にすぎませんが、じゃあ邪馬台国=大和朝廷が最初から畿内にあるなら、神武天皇東征の神話は何だろう、ということになります。 邪馬台国が九州か畿内かで、「国の成り立ち」についての推論が、全然違ってくるのです。

既に明らかになっており、記紀の歴史記述が虚偽であることが明らかになっています。大和朝廷以前の九州王朝の存在を抹消しています。 徹底解説 -- 邪馬『台』国九州説 DSCN2728 https://youtu.be/kYZc6pS8RNo DSCN2778 https://youtu.be/ZfmvvhLMIZ0 DSCN2793 https://youtu.be/XfplEgvqrtM DSCN2815 https://youtu.be/PyjFtK9GWK0 ①改めて確認された博多湾岸の俾弥呼の宮都@正木裕@和泉史談会 @20211215@和泉市コミュニティセンター@29:01@DSCN0382 https://www.youtube.com/watch?v=YZynRCV-2do 他、参照。■

ヤマト王権が確立する巨大前方後円墳の時代を古墳時代と呼び、3世紀中葉からと教科書ではなっています。 日本書紀でも纒向は累代の王宮が存在したことが記されています。邪馬台国成立が2世紀後半とされていることから、纒向に邪馬台国があれば、ヤマト王権の成立あるいは成り立ちが2世紀に遡ることになります。