自由意志はない。ひいては行為者はいません。人生はくじ引きではないですか?

補足

無自由であるということは、自分(行為者)の自由意志で、一切の身体、精神の活動ができないことを意味しますが、仮に、そのことを理解し、受け入れたとしても、私たちは、したいことができなくなるわけではありません。見かけの自由意志があるためです。 無自由による自由があります。 ラメッシによると、それは、心の重荷からの自由です。プライド、罪悪感、責任、挫折感、恥、敵意、憎しみ、嫉妬、などの心の重荷となる感情は、自由意志、ひいては行為者感覚に起因しており、自由意志や行為者が存在しないことを深く理解できれば、これらの感情が軽減、解消され、心の平和が得られ、人生がシンプルになります。

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

みなさん、回答ありがとうございます。

お礼日時:11/28 8:24

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実にインド人らしい発想だなーと。 その理屈はある概念をもって考察すると矛盾しないものではあるけど、現実に沿っているかどうかは分からないし、人間には知り様がない。 その理屈に必要な物理的条件は”無限”。 この世界が無限であるか有限であるかは人間には観測不可能なので概念でとらえるしかない。 無限であった場合、どんな小さな出来事や個人的な独自の判断でも必ず同じ事象が何度も繰り返されるので、全ては反応であると言える。 ここが古代インド哲学っぽいところ。 でも、現実はどーかなーという感じかしらね。

真の自由意志がないとしても、行為はその個人に附随するものですから、それをもって行為者を定義すればよいだけだと思います。 >それは、自由意志ではなく、自由意志感覚、ひいては、行為者感覚にすぎず そう思います。 しかし、自由意志感覚がある以上、それを否定することも出来ません。 行為者感覚であっても、それが自己に付随する行為であることも否定できません。 >見かけの自由意志があるためです。 それが見かけなのか、真の自由なのかは大きな問題にはなりません。それぞれがそうである二つの世界を見比べてみても、大きな違いはないはずです。

いちいち「わざとやった?私に何の恨みが?あれか?あれは○○で正当なことだから」と思う被害者意識強い人には私もウンザリですが、他責事故をくらったら損害賠償を求めます。 自由意志とか考えたこともないですが、自由意志が「ない」と思ったらケガも物損も生じないわけじゃないですよね?

人生が上手く行かない事を、他人のせいにした方が生き易い人には、そう言う考え方は良いのかもしれないですね。自由意思がなく、自由意思感覚に過ぎない事の比喩が、聖なる睡眠と言うのも良く分かりませんね。 自分の人生に責任を持ちたい人にとっては、自由意識でも自由意識感覚でも、どっちでも良い事ですね。

他者も行為者では、ありませんから、自分の責任にも、他者の責任にもなりません。誰も責めることはできません。エピクテトスの考えと同じです。 奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 ――この生きづらい世の中で「よく生きる」ために (日本語) 単行本  荻野 弘之 自分が不幸な場合に、そのことの原因となった他人を非難することは、無教養な者のすることである。自分自身を非難するのは教養の初心者のすることである。他人をも自分をも非難しないのが教養のできた者のすることである。 (『提要』5b)

仏教であれば「明らかに観る」ということが基本ですが、 arujuna4096(弐)さんは、ご自分の都合のいいように、仏教も ヒンドゥー教も利用しているに過ぎないように見えます。 過去からずっと。 仏教であるならば「意図、意思」が業を作ります。 その業によって「意図、意思」する私を生みますが、その「私」の意思は 100%業によって型に嵌められるわけではありません。 ブッダが仏教を「精進行」と言ったのは、「私」の意図、意思がある 前提なのです。 あなたの言う「行為者はいない」は、あなた自身が操り人形でもあるかに 聞こえますが、あなたには間違いなく「意図、意思」があるのです。 それがなければコーヒーを飲むことも、歯を磨くことすらできません。 大事なことは「明らかに観る」ということだと思います。