現在では鎌倉政権は朝廷権力を前提とした政権であったと考えられています。
鎌倉政権の政治的・軍事的・経済的基盤は頼朝が平家追討の温床として手に入れた関東知行国及び関東御領です。大雑把に言えば前者が頼朝が知行権を得た国衙領で、後者が頼朝の私有地として領有していた荘園・公領です。
これに加え、寿永二年十月宣旨によって与えられた東国の国衙を指揮する権限、平家没官領の支配権、文治の勅許による守護地頭の設置権荘園公領を問わない兵糧米の徴収権が加わります。
鎌倉政権を運営する機関は政所が知られていますが、これは本来公卿の家政機関として設置が公的に許されているものです。もともとは頼朝の私的な機関として置いていた公文所があったところに、頼朝が公卿になったことにより(従二位に叙位された1185年か、権大納言・右近衛大将に叙任された1190年かで議論があります)公的に許される機関である政所を設置し権能を移行したとされています。
これだけ朝廷権力に根差した政権であったのですが、だからと言って必ず朝廷権力を推戴する必要はありません。しかし承久の乱の段階ではそれを行うだけの実績も時間経過もありませんでした。律令制の開始からとしても500年間日本を支配してきた社会体制はそう簡単に変わりません。仮に頼朝がそれを行おうとしても御家人が全員追随するとは限りませんし、ましてやその下の郎党、そして農民まで確実についてくるとは言い難いです。
さらにこの時期は源氏将軍が途絶えてしまって僅かに満3歳の摂家将軍九条頼経が四代目将軍となって僅かに2年、大きな政治体制の変革を迎えるにはあまりにも鎌倉政権そのものが不安定でした。
この政権の不安定さの傍証が、承久の乱の3年後に義時の急逝に伴い発生した伊賀氏事件の収拾に見て取れます。
この事件は義時の後妻であった伊賀の方が実子・政村を執権職に就け、兄の伊賀光宗に後見させて娘婿・一条実雅を将軍に擁立しようとしたものです。
ただ、これに関わった人物のいずれもが寛大な処置で済まされており、一時配流になったものの半年程度で政治への復帰が認められています。北条政村に至ってはお咎めなしで、後に連署を歴任した後に執権にも就任しています。
こういった処断の理由に発足してからまだ時間が浅い鎌倉政権の基盤が揺らぎかねないという配慮がなされたためとも言われており、そうなると承久の乱直後も大規模な政治体制の変革を行うほど政権の基盤は整っていないと言えるでしょう。
なお、「天皇御謀叛」「当今御謀叛」という言葉は南北朝時代に登場するのですが、これは基本的に後醍醐天皇の倒幕計画を指して使うものです。もともと「謀反」「謀叛」という言葉が律令に定義のある言葉で、本来はいずれも「国家、即ち天皇に対して行われる反逆」なのです。その後、実際の主導者が誰であるかは置いても国家の頂点は天皇で間違いなかったのですが、承久の乱以降になって初めて天皇に対抗できる政治勢力が誕生してしまい、その結果「謀叛」という言葉自体の定義が揺らいだことが指摘されています。
その結果、「天皇が謀叛を行う」という本来の語義から矛盾する用法が発生してしまったのです。
承久の乱に関してはこの用法が登場する前の話なので同時代史料では当然使われておらず、その後の諸史料でもそのような呼称は用いられておりません。