奄美群島
奄美では琉球王国初期の征服活動で過酷な仕打ちを受けた事もあり、反沖縄本島感情が高かった。
1945年9月米軍が奄美守備隊に降伏文書を突きつけた際、奄美を「北部琉球」と表現しているのを見つけると、奄美守備隊は「北部琉球」の文言の訂正をしない限り調印しないと拒否するほどであった。
この話はたちまち島中に伝わり早期復帰運動が全島上げて盛んになった。
奄美経済は日本本土に物産・作物を販売することで成り立っていたが当然これは途絶した上に、アメリカの資金や資材は沖縄本島復興に集中投下されたため奄美の島民の暮らしは苦しくなり、ますます復帰運動が激しくなった。
アメリカは間接統治を試みたものの、当選したのは当然復帰派の人物であったためにアメリカは権限を大幅に縮小した上に途中で廃止して直接統治に戻す有様であった。
ますます本土復帰運動は非暴力ながら激化し、14歳以上の住民の99.8%が本土復帰署名運動に参加したり、集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、署名に参加できなかった小中学生が血判状を作るという状況になった。
サンフランシスコ平和条約が結ばれると、アメリカは早々に奄美統治を諦めて日本に返還した。
小笠原諸島
小笠原では1944年に7000人弱いた島民のほとんどが日本本土に疎開させられて、この状態でアメリカが占領した。
アメリカはほとんどの島民の帰還を拒否。
江戸末期に日本人に先んじて小笠原開拓を行った欧米系(明治に日本に帰化)の子孫とその家族135人のみに帰島を許可した。
このためアメリカ統治帰還の小笠原は極端に人口が少なく、間接統治は出来なかった。
1968年に小笠原が日本に復帰すると、ようやく一般の旧島民の帰還が許された。