知恵袋ユーザー

2024/6/5 6:35

33回答

中宮定子は尼僧の姿になっても帝の寵愛を一身に受けていたのですか? お召し物も灰色で髪も短かったわけでしょう。出家した后から生まれた親王や内親王の立場は悪くなると思いますが。

文学、古典 | 日本史718閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">50

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定子が亡くなってからも彰子は長く懐妊しなかったので、道長は定子の生んだ第一皇子・敦康親王を彰子の養子に迎えました。彰子に最後まで皇子が生まれなかった時のために、布石を打ったのです。 七年後、ようやく彰子に第二皇子・敦成親王が生まれると、道長はあっさり敦康親王を捨て、その周囲から後ろ盾になりそうな人物を排除して行きます。その後はすでにご承知の通り。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

有難うございました。

お礼日時:6/6 23:14

その他の回答(2件)

定子の出家はまさしく発作的に行ったもので、正規の手続きを踏んていません。 出家するのであれば、導師を定め、天皇の勅許に基づいて得度式を行って正しい手続きで出家をします。 しかし、定子の出家は天皇の勅許もないし、導師もいないし、得度式もやっていません。 一方的に定子が出家を宣言しただけで、手続き上は出家していないのです。 とりあえず、一条天皇とは別居状態というくらいで中途半端な状況になっていました。 藤原実資の日記『小右記』にも、僧形なのに定子の周囲の人は出家していないと言い張ると書かれるなどワケのわからない状態になっていたのです。 これによって、そもそも不人気だった中関白家の定子はますます、貴族社会から白い目で見られるようになっていきます。 この状況は定子にとって悪く、これを藤原道長が利用するのです。 一条天皇には正后不在となってしまっており、正后不在の異常事態は早く解消したほうがいいということで、娘の彰子を後宮にねじ込み、中宮として立后してしまいます。 (定子は形だけ皇后に繰り上げ) ともかく、出家騒ぎでますます評判を落とした定子ですが、廃后されなかったのは、一条天皇の寵愛が残っていたからだとされます。

そこが定子の弱点でした。 この頃、一条天皇の他の後宮は皆寵愛を失ったり、想像妊娠騒ぎで事実上失脚したりしており、子供を身ごもった定子に替わる存在はいませんでした。 そこで一条天皇は定子を宮中の片隅に呼び戻して通いつめて定子は3回連続で妊娠するほどでした。 しかし形式上とは言え一旦出家した定子を宮中にいれ、さらに通いつめる天皇を貴族たちは「よろしからず」と眉をひそめて噂しました。 この空気を察した道長周辺は「皇后(定子)は出家なされているので公式行事に出れません。この上は新しい妃をお立てになりこの問題を解消すべきです」と天皇に迫りました。 こうして一条天皇は道長の娘の彰子の入内を受け入れ、彰子は入内して準備出来次第に皇后(定子)がいるのに中宮に立てられるという二后並立時代の始まりとなりました。 さらに定子が三度目の出産に際して亡くなると遺児たちの立場は決定的に弱くなり、彰子の子供たちに皇位を持っていかれる事になります。