こんにちは。「tyran」です。
「真理の峰」に例えれば、「大悟:大いなる悟り」は山の頂です。
そこに至る前段階が、山の中腹であり「五合目」で、ここが「中道」(中庸)です。
2500年前、仏陀ことお釈迦様は、29歳で「王位継承権」を捨てられて、妻子を宮殿に遺され修行僧としてご出家されました。
そこから「苦行」を重ねられること6年間、断食行で体はやせ細り、餓死寸前の所で「苦行で悟りは開けない。」と、お気付きになられました。
当時の教えでは「苦行を行わないと悟れない」とされており、お釈迦様もその慣習にならって「苦行の日々」に身を置かれたわけですが、これはとんでもない間違いであり、実際、死人が出るだけで、「仏陀:目覚めたる者」に到達された人間もおりませんでした!
お釈迦様が「苦行」が間違えであるとお気付きになられたきっかけは、所説ありますが、とにかく「死」の寸前で気付くことが出来ました。
「餓死寸前」の苦行中に、「糸売り商人」が「歌」を歌いながら通り過ぎて行きました。「♫琴の糸~きつく締めればプツリ切れ~、さりとて緩めりゃ~音がせぬ~♫」、お釈迦様は「ハッ!」と気付かれます。
「そうか、怠惰な暮らし方が体に良くないのと同じように、自分の体を傷めつけることも良くないのだ!そんな事を続けても、悟れるわけではないのだ!」
つまり「どちらにも片寄らない」という「中道の意識」にお気付きになられたわけです!これは、言い変えれば「中立の意識」でもあります。
「瞑想法」の「マインドフルネス」です!
「あるがまま」にすべてを見つめて「あるがまま」に受け止めます。
「善悪の審判:ジャッジ」を行わず、「心」で誰も裁きません。
「車のギア」で例えれば、「ニュートラル:全てのギアに接続しない」です。
この世には、様々な人間がいて様々な「もめごと」があって、「いがみ合い」「論争」などがあるわけですが、それも「あるがまま」に見つめて、善悪のジャッジを行いません!ある意味「関わらない」見方をします。
当然「中道の意識」(中立の意識)では、「善・悪」の判断を行わず「どちらにも片寄らない」わけですから「無我無欲」であり「無我の境地」でもあります!
お釈迦様は35歳で「中道の意識」にお気付きになられ「苦行」を止まられ、「瞑想行」一本の修行を行われました。静かな「湖の湖面」のような心で、「あるがまま」に意識を集中させてゆくと、この世・宇宙・世界の動きが感覚的に感じ取れるようになるわけです。
そして、お釈迦様は一年後の36歳の時に「大悟」を獲得されました!
最終的に、人間の「命の中」に存在する「悪魔」との対話があって、そこから「大悟」を獲得されました。すなわち「人間の命の中には、悪魔(マラ)が存在する。大いなる命の一部として、欲心と共に悪魔もいる。」
「欲も悪魔も、人間の命を支えてくれている。決して、敵ではない。問題は、人間自身の心の在り方で決まる。」
上記のように「悟り」を開かれて「真理の峰」で例えれば、山の頂に到達されたわけです!しかし「大悟の世界」を人々に、そのまま伝えても理解出来るものでもありません。そこで、「真理の峰」の「中腹:五合目」まで意識を下げられて、「比喩」を含めて、解りやすく「悟りの真理」を人々に説いて行かれました。
「大乗仏教」には「戒律」がありますが、これは「人の中にいる悪魔」に惑わされないように、弟子達に伝えられたもので、自分の中にいる悪魔に振り回されないように「戒:いましめ」の教えを置かれたわけです。
私(tyran)は、2011年5月に「三心経:蓮華心経・不鬼心経・拝霊心経」を悟っており、そのうちの一つに「不鬼心経」があります。
人間の「腹:丹田」(へそ下5㎝)には、「衣食住」生きるための「鬼:丹田の鬼」が置かれております。「腹の霊」と書いて、「腹霊:ふくれい」とも言われます。
この「丹田の鬼」は、「欲心担当」で無慈悲です。
無慈悲な鬼が「腹」にいることにより、人間は「生き物」の「命」を奪って頂いて生きて行けるわけです!
「鬼」は、英語で「デビル:悪魔」です。
つまり、誰であれ「腹」があれば、そこに「悪魔:鬼」が住んでるわけです。「丹田の鬼」は、人それぞれ「動物の姿」をしております。
私の「丹田の鬼」は「亀」です。
私は、のんびり屋で「マイペースな男」であり、本人の特徴が出るようです。
さて、生きるために必要な「丹田の鬼」ですが、人間が負の感情(恨み・憎しみ・嫉妬・ねたみ)を「胸」に抱くと、「鬼」は「胸」まで上がり、「鬼のような人間」になったり、「殺人鬼」「テロリスト」等になることもあるので、「腹の鬼は腹のまま」「胸の中には鬼あらず:不鬼」と心得て、生きて行かれる必要があります!
私の「丹田」には「亀」がおりますが、それとて「胸」に抱かれるようなことになれば、私自身が「鬼のような人間」になってしまうわけです!
だからこそ「不鬼心経」(胸に鬼あらずの心のおしえ)という「悟り」が出来た訳です!「不鬼心経」を含めた「三心経」は、私自身のオリジナルの悟りです。
「仏教」では「悟り」を開くことを「降魔成道:ごうまじょうどう」と言いますが、私の場合「降鬼成道:ごうきじょうどう」(鬼を降ろして道を成す)だったわけです!
●「お釈迦様の悟り:降魔成道」
●「tyranの悟り:降鬼成道」
つまり、お釈迦様が悟られた「命の中の悪魔」とは、「丹田の鬼:腹霊」のことであることは間違いないと思います。
「中道の意識」は「無我無欲」「無我の境地」と書きましたが、実は「雲の上」にある「彼岸世界」の意識でもあります。「霊界・天上界」「菩薩界・仏界・神界」が「雲の上」にありますが、基本的には「中道の意識」です!
「あるがまま」に、この「地上世界」を見つめておられ、見守っているわけです。その本質は「仏心:慈悲の心」です。人間の「胸」にあるべきものでもあります。
●「胸」に「仏心:慈悲の心」(空)(鬼がいない)
●「腹」に「欲心:丹田の鬼」(色)(鬼がいる)
上記のように、人の体には「空・色」が収まっております。
「悟り」の獲得前に「中道の意識」、
「悟り」の獲得後に「中道の意識」です。
つまり、基本は「中道の意識」なのです!
だからこそ「悟り」の獲得に至ることが出来る。そして、悟った後で「中道の意識」に戻り、「永遠の真理」を人々に伝えて行くわけです。
勿論、私自身の意識も「中道の意識」に置かれた状態で「回答」させて頂いているわけです。「どちらにも片寄らず」、「あるがまま」にお答えさせていただいております。
以上です。
ありがとうございました。