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知恵袋ユーザー

2022/3/25 23:33

33回答

承久の乱で仲恭天皇が廃位されたのはなぜですか?乱が起きた当時、天皇はまだ幼いので、そんな判断能力はなく、倒幕に積極的だったとは思えないので、このままでも特に問題なさそうですが。

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回答(3件)

白河天皇が譲位して、院政を開始してからは現天皇の直系尊属(父・孫)の上皇(法皇)が天皇家の家長である「治天の君」として政治を尊乱sる体制となりました。後白河上皇の院政期の初期には二条天皇の親政との対立がありましたが、この場合は二条天皇が元服して一応成人でした。 九条廃帝(仲恭天皇)は幼児であり、当然ながら親政はできず、治天の君が必須です。この資格者は後鳥羽上皇か順徳上皇です。しかし、両上皇とも乱の首謀者であり、流されて都にはいません。藤原道長等のような天皇の母方が摂関として政治を主導するやり方も考えられましたが、すでに院政が定着しており、これは考えられませんから、やはり院政ということになります。すると九条廃帝を譲位させて、新たな治天の君を擁立して、その皇子を新天皇とすることになります。当然ながら、後鳥羽上皇とは直接血縁関係ない皇族からということになります。これが後鳥羽上皇の弟の守貞親王と言うことになり、新守貞親王に院号を与え御高倉院として、皇子(堀河天皇)を践祚させて、院政の形態を継続させたのです。

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順徳上皇の息子だったからでしょう。 承久の乱では後鳥羽上皇と並んで順徳上皇は鎌倉幕府倒幕に積極的でした(一方、土御門上皇は消極派で幕府はおとがめなしにしようとしたのに、自ら土佐に流されました)。 ちなみに四条天皇が12歳で崩御したとき、京都の公家の総意で最有力の皇位継承者は仲恭天皇の弟で忠成王でしたが、鎌倉幕府はこれをゆるさず、土御門上皇の皇子である後嵯峨天皇を即位させています。 順徳上皇はこの決定にショックを受けて急死したとか。 また忠成王は幕府の反対で親王にさえなれませんでした。