軍事・防衛のための「出羽柵」が当時の秋田村に移転し、政庁や楼閣等の建物が増え行政機能も併せ持つようになると「柵」から「城」となる。
出羽柵(イデハノキ)は700年代初め(和銅元年の前後)頃に最上川河口、酒田市付近に設置されていたが、天平五年(733)になって北進し、雄物川下流の秋田村高清水の岡(現在の秋田市寺内)に遷されました。
その後760年頃(天平宝字の初め)には秋田村の名をとって「秋田城(アキタノキ)」と称されるようになります。
*『続日本紀』天平九年「多賀柵~出羽柵までの直道建設」当時には多賀柵も出羽柵も両方とも「柵(キ)」、宝亀十一年(780)以降は「多賀城」。
<出羽柵の北進と柵から城への呼称の変化>
律令以前の蝦夷政策は斉明天皇時代の阿倍比羅夫の蝦夷討伐に見られるように越~秋田~能代までの日本海側に居住する蝦夷に対し、軍事と共に帰順を促して国家に組み入れ、開発を進める事に重きを置いていたと言われており、この頃にtype98fighter様がご指摘のように幾つかの柵が設置されています。この柵には周辺諸国から農耕に習熟した民戸を集団移住させて帰順した蝦夷に農耕を教え、周辺の開発を進めたと言われています。
*柵に居住させた蝦夷を「柵養の蝦夷(キコウノエミシ)」と言い、民戸は柵戸(キノヘ)と言います。
八世紀以降の東北(蝦夷)支配は軍事的平定に重きが置かれ、特に活発化している蝦夷の反撃に対し、太平洋側と日本海側の両道から同時に軍を進め、内陸部の帰服せず抵抗を続ける蝦夷を討伐する作戦が主となります。
そのため庄内地方にあった出羽柵を更に北進させ秋田村高清水岡に移し、多賀柵から出羽柵への最短路を開くための直道建設が行われ、出羽柵(秋田柵)・桃生・雄勝・伊治城を結ぶ地帯を蝦夷征討の最前線とし、太平洋側(多賀柵)と日本海側の両道から同時に軍を進め内陸部の帰服しない蝦夷を討伐しようとします。
奈良時代の出羽柵は日本海側の重要拠点でしたが、その後蝦夷に対する軍事行動が次第に太平洋側に移ることにより、当初の防衛や軍事的性格だけでなく行政機関としても充実することにより「柵」から「城」へと呼称が変わったと言われます。
<飛鳥~奈良時代の「柵」>
柵(キ)=斉明時代の沼垂柵(ヌタリノキ)は木材を立て連ねて一定の地域を画した防衛施設。ここには、役人として柵造(キノミヤツコ)と、兵士としての柵戸(キノヘ)が居住している。
柵造=柵戸を率いて蝦夷を防ぐ施設である柵の長官、国造や伴造の一種と考えられている。
柵戸=柵に配置された屯田兵。律令時代にも柵戸と呼ばれている。
<多賀城跡の発掘調査から>
1期=掘立柱の建造物で八世紀前半から半ば頃の造営。
2期=礎石建造物に改修されている(焼失跡があることから宝亀十一年伊冶呰麻呂の乱によるもの)。
3期=正殿が切石積の基盤となり東西に楼が配置され、政庁跡・武器庫等多くの建物跡が発掘されている。九世紀後半までの建造物とされる。
<柵と城の違い>
柵:周囲に材木を立て連ねた掘立柱の建造物、蝦夷を防ぐための防衛・軍事的性格を持ち、周辺諸国から移住させた柵戸と呼ばれる人々を居住させている。屯田兵的要素があり、緊急時には兵士となり蝦夷とも戦う。柵には長官がおり国造や伴造の一種と考えられている(在地豪族が任命される)。
城:外郭を築地で囲まれ中央に正殿や複数の建造物があり官衙・武器庫・兵士の宿舎等々がある。城には鎮守府や国府が置かれ、柵の時代からの防衛・軍事的性格を維持すると共に行政機関的な側面も持つことから「柵」から「城」へと呼称が変化したものと考えられている(八世紀頃の城には鎮守府が置かれていたので中央貴族が鎮守府将軍として任命されている)。
『続日本紀』新日本古典文学大系/岩波書店
『軍事史学』軍事史学会/甲陽書房