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阪神淡路大震災であれだけの被害が出たのは、悪い条件が複数重なったためだと思うのですが、皆さんはどう思いますか?

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回答(8件)

逆に5時46分という起床前の時間であった事であの程度で済んだものと感じます 月曜日が成人式の振り替え休日であった事で、17日は3連休後の始動日で もし発生が2時間後なら交通機関はフル稼働となりオフィスにも道路にも人が 溢れており、JR・阪神・阪急はもとより新幹線も1編成1300人近い乗客が 多数脱線転覆することで目も当てられない惨状となっていたでしょう 阪神高速道路も数珠つなぎの通勤自家用車が転げ落ち追突して炎上した事で しょう この様な状況ともなれば死者は6千人台ではなく、軽く万の単位を越えた事と 感じます

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震災が起こった本当の原因は、前日に創価学会が日蓮正宗の御本尊を改ざんコピーしたものを神戸に約3000体配布した仏罰です。 悪い条件が重なるのも、そうなる原因が必ずあります。

大都市の直下型地震と人口の少ない地方でしたら、 もちろん死者数も全く違ったとは思います。 ただ、それは結果論であり、時間は戻せません。 当日、朝6時前に起きていた私は速報でこの地震を知りました。 特に関東では、関西では大きな地震が起こらないという話を 聞いておりましたので『え?』という感じでした。 テレビ局も情報が錯そうしており、関東には情報が中々 入って来ない状況でした。しかし新幹線の高架橋が落ちたなど 普通ではないとも感じ始めていました。飛び込んで来た映像は 目を疑うほど酷く、当時私は20代後半で今までにも目にしたことがない 酷いものでした。気候も温暖化が進み、去年の様な猛暑日の 連続ならば、冬の方がまだマシだったのかと考えてしまいます。 あちこちで火災が起き、火災で暖を取る人も居ましたし 倒壊した家の木を集めて公園で焚き木をしてた場面も見ました。 真夏の場合、逆はできません。 圧死の数は冬でも夏でも変わらなかったかと思います。 一番の問題は、渋滞で緊急車両の通行がスムーズに出来なかった 事が被害拡大に繋がった大きな原因の一つと言われています。 この震災以降、大地震の際は車を左に寄せて駐車する事が現在 求められてます。知らない方も居るかと思いますが。 左に寄せ、車を離れる場合はキーを付けたままが原則です。 しかし、東日本大震災では大津波警報が発令されたため 渋滞は発生しました。大都市に置ける大震災の場合、車が犠牲に なろうとも、守るべきだと私は感じました。左に寄せても エンジンを切らなければならないルールはないので車の中で エアコンは使えます。個人的には真夏の方が厳しいと思います。 当時の新聞記事は現在も残っております。災害大国日本に生まれた以上 ある意味、宿命でもあります。しかしルールを守れば死者は減らせる はずですので、国はもっと防災に力を入れるべきだと思っており、 また個々でも災害への危機意識を高める事は重要だと思っています。

逆に後2時間あとだつたら新幹線は全速走行中で何もできないまま脱線して市街地に突っ込んでいたかもしれません 一番のネックは関西に地震は来ないという変な神話の為対策が不十分だつた事かと 良い例が神戸市消防局には大震災に対応するマニュアルが存在しておらず 当直通信指令はとっさに水防活動マニュアルを活用して初期活動を開始しました。 水道管はそんで消火活動に使う水が無く防火水槽 学校のプール河川最終的には神戸港の海水に頼って消火活動しています 何せ火災件数が消防車の数より多いのでは話になりません 当日午前中に応援に来てくれたのは三田市のポンプ車1台のみ これも三田市消防長がテレビ見て応援要請氏ている暇すらないのだろうとにかく行けとボンプ隊を派遣 その後電話連絡ですでに出動していることを知って県内共通刃でこうべ高速鉄道高速長田駅に来るように連絡 そして投入されたのは菅原通の火災現場でした

阪神淡路大震災の被災者で、土木技術者です。 早朝の地震だったので、被害者が少なかったです。 通勤時間帯ならば、高架橋の崩壊により阪神、阪急、JRの通勤列車、地下鉄、新幹線で脱線、転覆などで大きな死者が出ています。 また、阪神高速や国道2号線、43号線などでも、高架橋倒壊による被害者が大勢出ています。 不幸中の幸いとしか言えないですね。 大きな被害がでたのは、大都市の下に活断層があって動いたこと、地震の揺れが六甲山の硬い岩盤で跳ね返って増幅したことなどが挙げられます。 阪神間の柔らかい沖積層と、六甲山の硬い岩盤による地形上の特質から多くの家屋が倒壊しました。