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武田家滅亡のあとの徳川家は織田から報酬とかの知行の割り当てをされていて、これは名実ともに徳川が織田の家臣扱いされていたことだというのは本当ですか?

回答(4件)

違います。長篠の戦い後です。 信長が家康など諸大名から「上様」と呼ばれたのは名実ともに天正3年(1575年)に右近衛大将(将軍)になった時です。 近衛府は天皇直参の日本陸軍で大将は官軍将軍です。 2年後に家康は右近衛権少将に任じられ近衛府(日本陸軍)では信長の部下です。 織田信長 元亀4年(1573年)7月:従三位参議兼左近衛中将(征夷大将軍)足利義昭追放 天正3年(1575年)5月21日:長篠の戦い 天正3年(1575年)11月7日:従三位権大納言兼右近衛大将(源頼朝が征夷大将軍に任じられた官位) 天正10年(1582年)2月、織田信長は武田攻めに際して朝廷を動かし、武田勝頼を「東夷(朝敵)」とした。 徳川家康 天正2年(1574年) 1月5日:正五位下左京大夫兼三河守 天正5年(1578年)12月29日:従四位下右近衛権少将

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武田家の旧領分配を、織田信長の指示の下で行われた、 という事ですね。 本来の同盟関係であれば、旧武田領の国分け=領地分配は、 織田、北条、徳川の同盟を結んでいた三者の話し合いで、 確定すべき事項です。 しかし、武田家が滅ぶと、織田信長は一方的に、 徳川家には駿河一国、北条家には分配なし、 最初に武田を裏切った木曽家には信濃一郡の加増、 といった裁定を勝手に決めてしまいました。 徳川も北条も、この裁定に大人しく従ったので、 この時点で、天皇を擁して天下に号令をする織田政権の傘下に、 組み入れられた、というべきでしょう。 つまり、一戦国大名の織田家の臣下になったのではなく、 天皇の権威を背景に、日本の統一者となった織田家が、 その他の戦国大名の上位者になったという事です。 武田征伐の直後、信長は四国の長宗我部氏に対し、 阿波や讃岐の占領地の返還を求めますが、 この事も、信長が統一者として振舞うようになった事と、 見て良いと思います。 そして、この一方的な命令に異を唱えた、 長宗我部氏は問答無用で、次なる討伐対象にされる事で、 信長は事実上、武家の人事治罰権を得たわけです。

武田攻めのあと、徳川家康は駿河一国を信長から与えられました。 領地を与えられるということは、ここで主君と家臣の関係になったといえるでしょう。 例えば、徳川家康の側近である松平家忠は日記を残してくれました(「松平家忠日記」) この内容を見ると、この時期を境に、「信長様」から「上様」に呼び方が変わっており、徳川家では、織田信長を主君としたことがうかがえます。 「上様御ふち候大うす進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云」(信長様が扶持を与えているという、宣教師から献上された黒男を連れておられた。身体は墨のように黒く、身長は180センチを超え、名は弥助というそうだ) 武田征伐のあと、家康の領地を通過して接待を受けていたころの信長の家人で黒人で有名な弥助の記録です。

もっと前の室町幕府の崩壊からです。 あくまで、書類形式上ですが、 足利家に仕える織田家と徳川家 から、 織田家に仕える徳川家に変化しています。 おそらく、 家康が晩年に信長の話を全くしなかったなど、内心は嫌っていた様子や、安土で信長が家康を歓待したことなど、 信長は気を使っているつもりなんだが、家康はいろいろと不満をためている、その原因の一つが、書類形式上=公式には家臣扱い、なんでしょうね。