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幕末に尊皇攘夷とかいう思想が流行り、沢山の公家も同調してたみたいだけど 肝心の朝廷のトップの孝明天皇は幕府寄りなのに何故、岩倉具視とかは堂々と帝に逆らってるんですか?

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回答(5件)

堂々と逆らっていない。 朝廷は 薩摩の公武合体派と 長州の遠略航海派に分かれた。 共に朝廷、幕府両立の本来の尊王攘夷思想。 岩倉具視は公武合体を支持して薩摩に取り入った下級公家。 長州の遠略航海策支持した三条実美などの上級公家と対立した。 当初は押されて岩倉村に籠り暗殺逃れた。 逆襲成功して七卿落に繋がる。 孝明天皇は日和見、双方も幕府も尊王攘夷なので誰が勝っても安泰と思ったようです。 徳川慶喜に肩入れし過ぎ岩倉具視に暗殺されたと疑われた。 明治時代には徳川慶喜は明治天皇の義兄になってます。 連合政権に移行すれば孝明天皇がその首班に徳川慶喜を指名すると思われたようです。 当初の太政官政権が明治政権です。

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だって、今まで何百年も気楽な引きこもりニートしてたのに いきなり働け、て嫌だろ

岩倉具視は、謹慎を受けていて、朝廷には出れなくなりました。

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幕末期、尊皇攘夷の思想が広まる中で、孝明天皇は幕府寄りの立場を取っていましたが、岩倉具視は異なる動きを見せました。彼は当初、公武合体を支持していましたが、幕府の外交政策や条約締結に不満を抱き、次第に倒幕派に転じました。岩倉は、国の独立と尊厳を守るために、幕府の政策に反対し、新たな政治体制を模索しました。孝明天皇の死後、岩倉は倒幕運動を積極的に推進し、明治維新の実現に寄与しました。彼の行動は、時代の変化に対応し、国の未来を見据えたものでした。

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幕末の尊皇攘夷運動において、朝廷の最高権力者である孝明天皇が幕府寄りの立場をとっていたのに対し、公家の岩倉具視らが攘夷運動を主導した理由は以下のようなことが考えられます。 ・孝明天皇は幕府に従属する立場にあり、幕府の意向を無視することはできなかった。一方、公家の中には幕府への不満を持つ者も多く、攘夷の機運に乗じて幕府に対抗する動きを見せた。 ・公家の中には、朝廷の権威を取り戻そうとする者もいた。幕府の専制に反発し、天皇中心の国づくりを目指す尊皇の思想に共鳴した。 ・攘夷の理念は、外国の脅威から国を守ろうとするものであり、公家の中にも外国に対する危機感を持つ者がいた。 ・岩倉具視らは、朝廷の権威を利用して攘夷運動を推進しようとしていた。天皇の意向とは別に、公家が独自の政治的判断で行動していた側面がある。 つまり、朝廷の最高権力者と公家の間で、幕府への対応や国是に関する見解の違いがあり、公家の一部が攘夷運動を通じて幕府に対抗したと考えられます。

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