違います。自己犠牲というのは、自分の命の価値を知っている上で他人の為にそれを使う事を言います。
どっちも表面的にそう見えても、実際は自己犠牲的なキャラでないし、違うタイプです。
羽川翼の場合は自己犠牲でなく、自己満足である、と本人は理解していて、言葉にもしている。
士郎は他人が自分の行動をどう思うかという客観的な意見、視点は持ってない。(必要としてない)
そして自分の行動を自己犠牲とも捉えてない。
自分の命の勘定がそもそもゼロです。
実際に士郎の行動は自己犠牲の心からきてる行動じゃないし。
彼が正義の味方やってるのは、そうしないと自分には生きる事が許されない、という強迫観念。
強いトラウマからの行動です。
士郎は過去聖杯の泥で冬木で多くの人々がそれで死んだ時、自分だけがかろうじて生き延びた過去がある。
(リアルでもこれは本当にある事で、大きな災害や事故を目の前で体験して、自分だけが生き延びた時、みんな死んでしまったのに、自分が生き延びてるという事に強い罪悪感を覚える、とされてます。)
士郎が正義の味方、人の為に全部を捧げるのは、自分の中にある罪悪感、トラウマからです。
だから彼が生きる糧として、人助けは必要なもので、優しさからきてるものではない。
作中のキャラも、それは酷く歪である、と言ってるし、作り手も士郎は感情の無いロボットと公的に言ってます。
でも、歪さを知ってても、それを本気で死ぬ気で突き進めば、偽善だって何もしない人間を助ける事はできるし、それを積み重ね続ければ、その道の達成人になる事だってあるだろう、というキャラです。