変体漢文はあまり得意ではありませんが、それでも他者の意見があれば参考になるだろうと思ってお答えします。
鹿児島県維新史料編さん所編『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』(鹿児島県、1983年)「巻四九」所載1140号の島津惟新(義弘)書状だと思われますが、念の為本文全部の書き下し文と現代語訳を載せます。
【書き下し文】
今月二日の御状、同廿日伏見に上着し、披見し申し候、然れば人数差し上せらるべきの由、数度に及び申し下し候と雖も、今に其の甲斐無く候、然る処爰元乱劇大破に罷り成り候、左候へは、手前無人にて何を申し候ても、心に任せぬ事迷惑仕り候、今度の御書面大方なる文体、御心元無く侯、様子においては、使僧を以て申し入れ候条具らかにせず候、恐々謹言、
(以下略)
【現代語訳】
(慶長5年:1600年)7月2日付けのお手紙が、同月20日に伏見に届きましたので拝見しました。さて、兵を送るよう幾度もお願いしておりましたが、未だにその甲斐がありません。そうしているところ、こちらでは争乱が激しく混乱に陥っています。そうであるので、自分の手元に兵がいない状況では、どのようなことを申し上げても心にかなわず、迷惑しております。今回のお手紙は、大方なる文体であり、心もとなく思っております。こちらの状況については、使僧を遣わして報告しますので詳しくは記しません。恐々謹言。
「大方成文体」の訳は少し迷っています。「文体(ぶんてい)」は手紙等の文章の内容という意味であり、「大方なり」には
①あらかた。だいたい。ほとんど。おおざっぱ。
②普通であるさま。大体において適当なさま。
③いい加減であるさま。疎略。
の3つの意味があります。
兵を送ってほしいと再三頼んでいるにも拘らず送ってこないと言っているので、③を採用して「私をいい加減に扱っているような内容」と解釈するのが妥当かと思われます。いずれにせよ否定的な言葉でしょう。
必要ないかもしれませんが背景についても解説しておきますと、この時の島津義弘は4月に家康より会津征伐に伴う伏見城留守役を承っており、200名程の手勢とともに上方にありました。兵数僅少のため国許の島津忠恒に援軍を要請しますが、庄内の乱の影響等が重なり、忠恒自身の率兵上洛も援軍派遣も困難な状況でした。その後6月に家康が出陣し、7月12日頃には石田三成勢が挙兵、義弘は家康の命に従って伏見城に入ろうとするも何故か入城を拒否される事態に陥ります。同17日には「内府違いの条々」が発され義弘も受け取っています。そして同19日に伏見城の戦いが始まり、義弘は攻め手として戦闘に加わるという流れです。
余計なアドバイスかもしれませんが、史料の現代語訳を求める際には、大部でなければ全文を載せ、典拠や文書名等も書いておくと回答されやすいかと思います。