回答受付終了まであと6日

江戸時代、安土桃山時代、鎌倉時代の日本の首都はどこですか?

補足

首都の定義は今と昔では違うでしょうが、19世紀に近代国家が成立して西洋では世界地図も作られた時に、日本の首都は京都と江戸のどちらになっていたのですか?

日本史 | 政治、社会問題60閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25

回答(5件)

「首都」という概念事態が近代以降のもので、国際社会の法定的な都合でもあります。 現代的な首都は、国の中央政府が所在し、国家元首や最高指導者、政府代表が活動の拠点とする都市のことですが、各国の事情によって相違があり例外もあります。国の最大都市と同じこともあれば、歴史的政治的慣習的事情によって違うこともあります。 日本の場合は天皇を中心として考えていますので、大抵の事情は天皇の在所であり、必ずしも国の政治拠点とは一致していません。 日本における「幕府」は「政庁」の意味で使用されており、首都というわけではありません。

この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

天皇がいらっしゃっる場所が日本においては首都です。 なので、京都です。 明治天皇が東京遷都されたから現在東京が首都です。 政治の中心地とは限りません。

江戸、安土桃山、鎌倉が首都です。 首都=政治の中心地。 飛鳥、奈良、平安、室町、安土桃山、江戸時代 首都基準よる区分です。 京都云々言う人はタダのアホです。 法的には天皇の本宅が京都の御所です。 カナダの国王はイギリス王です。 首都はロンドンではないです。

794年から1868年まで日本の「首都」は「京都」です。 日本の行政的な機能はその時々の「権力者」の所在地によって異なりますが、その「権力者」も「天皇」から行政的な機能を委託されたと考えるべきです。 鎌倉時代も実質的な権力は「執権」の北条氏が握っていましたが、形式的にせよ「征夷大将軍」はいました。 源頼朝が鎌倉で武士政権を確立しましたが、「守護地頭」の設置も「征夷大将軍」も全て「朝廷」から頂いたものです。 その後の足利尊氏もしかり。豊臣秀吉もしかり。関白や太政大臣の位も、徳川家康の征夷大将軍もしかりです。 1867年11月の「大政奉還」で将軍の位と政治的な権力を「朝廷」に返したのです。この時点で「江戸幕府」は終焉したのです。 故に「天皇」のいる「京都」が日本の「首都」と言う事ですね。 また「外国の公使」が云々で、江戸にも鎌倉にもまして「安土」「桃山」「大阪」などには存在していませんよ。

日本の「政治体制」の特殊性を理解していないと日本の首都は、なんて疑問が出てくるのです。 ほぼ7世紀当たり、乙巳の変以後、日本の政治体制は「天皇中心」のものになりました。そして天武天皇あたりから天皇は「神」に昇華したのです。以後、政治の権力者が色々と変わろうとも、天皇を政治の上に置く体制は揺るぎませんでした。 鎌倉時代も、室町時代も、秀吉も天皇を排する力があったにもかかわらずしませんでした。と言うよりも出来なかったのです。江戸時代もしかり。 乙巳の変以前は天皇に他の豪族が変わる機会もありました。蘇我氏などもそうですが、最終的には出来ませんでした。 以後の日本の権力者はすべてそうです。 このことをしっかりと理解する必要がありますね。

天皇がいる京都でしょう。事実上の東京遷都となった明治時代に正式な遷都の詔が出されておらず、なし崩しで東京が首都になり、天皇が皇居に居住することいなりました。 オランダも憲法上はアムステルダムが首都だけど政庁はハーグです。これと同じようなものかと。