おっしゃる「悪魔」の定義がよくわからないのですが、
悪魔の持ってる宗教観にもよるような。
つまり、魔的なスピリチャルも、最初は人霊だったことが多いと思うので、
キリスト教的ないわゆる悪魔に、般若心経や祝詞は通じないような。
キリスト教的解釈だと、悪魔は自分の名を言われてしまうと
魔力が失われるとかで、身バレが嫌だと言われています。
あのエクソシストの映画でも「お前の名を名乗れ」と
神父が言ってましたよね。
それで、聖書の言葉や十字架だの聖水だので浄めていたような。
日本的なスピリチャルなら、何か魔界に堕ちる理由があるのでしょうから、
恨みや憎しみ、あとは物品や人への執着とかで霊界に行けない、
もしくは非業の亡くなり方で悲しさとか無念さで成仏できず、
彷徨ってるうちに魔的な方向に堕ちてしまったとか、
ケースバイケースだと思うのですが、
理由を問わずに悪魔祓いと称して経文唱えて喝破する手法は
少し乱暴な気がします。
満たされない思いがあるから娑婆を彷徨うのでしょうが、
供養されたいのに誰もしてくれないような場合は
般若心経などのお経を読むことで鎮魂にはなるかもしれませんし、
生前好きだった食べ物をお供えし、施餓鬼のようなことをすれば
供養になることもあるでしょうし。
神道の祝詞は、主に「浄め」に使われるようですね。
不浄払いには良いのかもしれませんが、
怨念ギラギラになってる霊体に対して、
祝詞で「あっちへ行け」と言っても、
そうそう言うことをきいてくれなさそうに思います。
ですので、般若心経と祝詞、どちらも何ともいえないような。