駅名を英文でどう表記するかというのは悩ましい問題でしてね。
東京オリンピックや大阪万博等の国際イベントや、昨今のインバウンド需要の増加に対応して、観光庁では 「観光立国実現に向けた多言語対応の改善・強化のためのガイドライン」(2014年)というのを策定していまして、自治体や事業者に対し、固有名詞や諸施設名を外国人にも分かりやすく表記するよう求めています。
また国交省も、2013年から全国の道路案内標識の英語表記を、外国人旅行者にも分かりやすいよう改善する取組みを始めています。
この取組みの結果、たとえば交差点名の「国会正門前」の道路標識の英文表記は、従来の「Kokkaiseimon」という日本語音訳で英語圏外国人には意味不明なものから、「The National Diet Main Gate」と意味を英訳したものに変更しています。
しかし駅名の場合は、たとえ固有施設名を駅名にした「市役所前」「○○大学」といったものでも、駅名そのものが施設名から独立した固有名詞として(少なくとも日本人の間では)認識されているので、おいそれと施設名を意訳した英語表記にはできないという問題があるんですよ。
北京・台北・ソウル各市の地下鉄の英文表記は、「北京大学東門」駅は「East Gate of Peking University」(注:北京大学はBeijingではなく現在もPeking Universityが正式な英文呼称)、「市政府」駅(台北)Tは「Taipei City Hall」、「국회의사당」(国会議事堂)駅は「National Assembly」と、中国語・韓国語の発音をそのままローマ字音訳したものではなく、施設名を英訳した駅名にしています。
日本人なら中国の駅名なら漢字で読めますけれど、非漢字圏の人なら中国語の音訳より英語に意味を訳してくれた駅名表記の方がずっと分かりやすいのは間違いありません。
ハングルが読めない人なら、「Kukhoeŭisadang」(ククェウィサダン)駅なんて音訳されるより、「National Assembly」駅と案内してくれた方が分かりやすい。韓国の国会議事堂の最寄りの駅なのだな、という位置関係が直ちに理解出来ますから。これは日本人でも(全員が賛同してくれるとは思いませんが)多くの人が共感できる話だと思います。
しかるに日本の場合、東京メトロの「国会議事堂前」駅は「Kokkai-gijidomae」、都営地下鉄の「都庁前」駅は「Tochomae」で完全に日本語読みの音訳です。近年、両駅とも駅構内の駅名票の下にはカッコ書きで「〔National Diet Bldg.〕」「〔Tokyo Metropolitan Government〕」と表記するようになりましたが、車内アナウンスや路線案内図では「Kokkai-gijidomae」「Tochomae」としか案内しておらず、「副駅名」的な扱いすらされていません。
多くの日本人は、駅名は固有施設名からは独立した固有名詞として認識しているために、外国人から「National Diet Bldg. Station」「Tokyo Metropolitan Government Station」はどこ?と訊かれても、即座に頭の中で「国会議事堂前駅」「都庁前駅」のことだとは翻訳できないんですよ。
もしかしたら「国立ダイエット館って何のことじゃい」と怪訝に思うかもしれません。これ、笑い話ではなく、大学教育を受けたはずの日本人でも相当な割合で「National Diet」が国会のことだとは知らないのではないでしょうか。
このことは、日本人全体の英語力にも関係している問題なんです。
駅名の英文表記をどこまで日本語の単なる音訳とするか、意味に即して英語に翻訳するかは、今のところ各鉄道事業者の裁量に委ねられているというのが実情です。
ほとんどの事業者が英語に意味を翻訳した英文駅名としているのは、現状「○○空港」駅ぐらいのものです。
「関西空港」駅(JR西日本・南海)は「Kansai-airport」、「新千歳空港」駅(JR北海道)は「New Chitose Airport」、「空港第2ビル」駅(JR東日本・京成)は「Narita Airport Terminal 2・3」。外国人利用者が圧倒的に多いため、空港第2ビル駅などは英文表記の方がより丁寧な表現にさえなっています。
空港駅で日本語音訳なのは「花巻空港」駅(JR東日本)が「Hanamaki-Kūkō」であることぐらい。まあこの駅、空港アクセス駅と呼ぶにはかなり無理があるのでこの方がいいのかもしれません。
「福岡空港」(福岡市営地下鉄)は「Fukuokakūkō (Airport)」と「Airport」をカッコ書き表示。「那覇空港」駅(沖縄都市モノレール)は「Naha-kūkō」でしたが最近になって「Naha Airport」に変更しています。
空港駅の場合は外国人利用者の利便を考慮して、国内線のみのローカル空港でもほとんどの鉄道事業者が「○○ Airport」の駅名にしているのですが、これは例外です。
それ以外の駅名の英文表記については鉄道事業者の裁量に任せているというのが実情です。
一応、意味に合わせた英語への翻訳を徹底して進めているのは、今のところ伊予鉄道と熊本市電ぐらいでしょう。
伊予鉄では「市役所前」を「Matsuyama City Hall」、「赤十字病院」を「Red Cross Hospital」、「道後公園」を「Dogo Park」、「郡中港」を「Gunchu Port」と英訳表記しています。
熊本市電は「熊本城・市役所前」を「Kumamoto Castle / City Hall」、 「県立体育館前」を「Kenritsutaiikukan-mae (Prefectural Gymnasium)」、「水前寺公園」を「Suizenji Park」、「動植物園入口」を 「Zoological and Botanical Gardens Entrance」と、一部カッコ書きながら基本英訳で表記しています。
「○○公園」を「○○ Park」、「○○港」を「「○○ Port」と表記しているのは、今の所この2事業者ぐらいのものです。
残りの鉄道事業者はどこまで日本語音訳で英文表記し、どこまで意味を翻訳した英語表記とするか、未だ手探りという状況でしょう。
JR東日本の「上越国際スキー場前」駅(上越線・新潟県)は当初「Jōetsukokusaisukījōmae」という、ハイフンすら入らない、外国人には呪文のように長すぎて駅名を読み終わる前に列車が発車してしまうだろうというとんでもない英文表記だったのですが、さすがに苦情が来たのでしょう、「Jōetsu International Skiing Ground」と意味を翻訳した英文駅名に修正されました。
「自治医大」駅(東北本線・栃木県)も以前は「Jichiidai」だったのが「Jichi Medical University」に表記変更されています。
鉄道各社は、まだ駅名をどう英文表記するか手探りの状況ではあるのですが、JR東日本のこれらの例をみるように、大まかな趨勢としては観光庁の策定した多言語対応ガイドラインに沿って、意味を英語に翻訳した表記の方が適正と思われるものは、日本語の音訳からそちらの表記に改めていく、という方向に動いているように思われます。
東武鉄道は駅名の英文表記については少し保守的なところがあるのかもしれません。つい最近の2017年(平成29)に「松原団地」から改称したばかりの「獨協大学前」駅の英文表記は「Dokkyodaigakumae」で、「Dokkyo University」にはしていません。駅名変更費用は獨協大学が負担しているので東武鉄道の意向というより、大学側の意向である可能性もありますが。
「東武動物公園」駅については、どうなんでしょう…、駅自体が大きく、知名度が高い駅名で、運転上も重要な駅であり、「国会議事堂前」などと同じで関東在住者にとっては「動物園の玄関口の駅」というより駅名それ自体が固有名詞として認識されていますからね。
「Tobu Zoo Park Station」はどこ、と外国人から訊かれても、「National Diet Bldg. Station」よりは分かる日本人は多いでしょうけど、「Tōbu-dōbutsu-kōen Station」と日本語の音そのままで言ってくれた方が分かりやすいのは間違いないですから。
東武鉄道グループが本気で外国人観光客を東武動物公園に誘致する気があれば「Tobu Zoo Park Station」に改称するかもしれませんが、改称にかかる費用対効果を勘案すれば、今のところそこまでする必然性は無いという判断なのでしょう。