回答受付が終了しました

邪馬台国問題について。 混一疆理歴代国都之図を用いずに、畿内説を論理的に説明することは出来ますか?

日本史 | 歴史169閲覧xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25

回答(8件)

まず九州論に存在理由がない。遺跡もなく、奴国以上の国が存在しえない環境下で遺跡の発見の見込みもない。新井白石の妄想に尾ひれを付けてきた歴史しかない。 昔からヤマト国と呼びならわしてきた邪馬台国。 俗書ではない中国正史が昔に邪馬台国は大和ですよと教えてくれている。 飛鳥時代、隋の遣いが都のある大和を訪れたときの記録で述べている。 『北史』居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。 『隋書』都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。 3世紀初頭、纒向に政治都市が既に存在し、北部九州を玄関にした大陸交易で潤っていた。北部九州からの影響は他地域にほとんど存在しない。 土器の移動は人の移動だが、九州の土器は他地域への移動は微々たるもの。逆に畿内土器は北部九州を席巻している。 珍重された中国鏡の分布を見てもすでに畿内の勢力が圧倒していた事実しか伝わらない。 九州説は机上の空論ばかりで妄想しかない。勝手な解釈や近畿説の否定で中身のない満腹状態を得ているにすぎない。説得力ある九州説を伺いたいものだ。土俵自体(遺跡)が無いからどうしようもない。比較検討もできない。

画像

この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

ご回答ありがとうございます。 九州説は倭人伝の記述「南→南→」が根拠だと思うのです。皇国史観の方も一部いますが。 私は九州畿内のどちらでもなくて、ただ真実を知りたいです。 南を東に変えないと大和には行けないという点についての、説明を提示していただけると素人にも納得できます。 もちろん「それは気にしなくていい」というのも、一つの答えだと考えます。

今の時代の邪馬台国論争は文献学より考古学が主ですので考古学的証拠の方が価値があります。 その地図を根拠にして畿内説を主張している考古学者など1人もいません。 また文献学の立場からいっても距離や方角が間違っているというよりそもそも当時の地理認識が間違っているという考えが主流です

ご回答ありがとうございます。 >当事の地理認識が間違っている という辺りを、もう少し具体的に教えていただけると助かります。 お手数ですが、よろしくお願いいたします。

無理ですね!「南を東に、無理やり解釈変更するのに、たまたま都合のいい史料があった!」と言うだけの事ですね!

>邪馬壱国問題について。 混一疆理歴代国都之図を用いずに、畿内説を論理的に説明することは出来ますか? 残念ながら、不可能ですね。 「混一疆理歴代国都之図は13世紀の図で立証根拠ですらない」 などと、言っている回答者もいますが・・・ 日本も江戸時代初期までは、この地理観の認識でした。 豊臣秀吉の朝鮮出兵等も、この認識であったという事です。 混一疆理歴代国都之図は、行基図等(奈良時代)を参考にしたものです。 つまり、奈良時代以前においても、 混一疆理歴代国都之図と同様の認識という事が証明されるものです。 もう、おわかりですよね。 古代より、もちろん、邪馬壱国時代も、この地理観に近かった事だけは、 間違い無い事であったという事です。 尚、 混一疆理歴代国都之図であろうとなかろうと、 短理であろうと通常里であろうと・・・ 魏志倭人伝記述の道程距離において、全くの無視もしくは歪曲等をせねば、 畿内説を論理的に説明する事は不可能という事ですね。

混一疆理歴代国都之図を用いずに、畿内説を論理的に説明することは出来ません。 短里の概念により邪馬壹国が博多湾沿岸に存在したことが論証されており、考古学的事実とも一致しています。 邪馬一国の証明 https://furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku14/mokuzi14.html 『続・邪馬台国のすべて』 https://furutasigaku.jp/jfuruta/yamatai/yamatai.html 「邪馬台国」畿内説は学説に非ず https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho124/kai12402.html 他、参照。■