歴史について質問です

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大坂本願寺については、『石山本願寺日記』上・下巻を読めば、顕如のことが分かります。 これを読みもしないで、人を批判することは止めましょうね! 顕如は、最初に突然挙兵した時に、信者たちに檄文として「破却すると確かに通告してきた。」と書き送っています。 問題は、この「確かに」という言葉をどうして付け足したのかです。 檄文ですから、信者たちを信用させる必要がありました。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

丁寧な説明大変わかりやすいです ありがとうございます

お礼日時:2024/11/10 18:31

その他の回答(4件)

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2007/07/101907.html 上記に宣伝の書籍が質問者の疑問に 的確に答えてくれるように思うので 機会あったら読まれたら幸いです。 ところで最近、関東で連続多発の ヤミ・バイト押し込み強盗団~ 指導者はスマートフォンで下手人ら 指示しているそうで通り名は 「織田信長」というそうです。 元祖・織田信長が知れば冥界で何と 思っているでしょうかね。

何が名誉棄損罪やねん↑のオマエが返信 した文がプーチン支持者みたいで気持ち 悪い~って正直な感想なんぢゃねーか。 日本はプーチンが支配して言論統制して いるような独裁国家ぢゃ無いんだぜ。

徳川家康の信康殺しは、「家康が主導、信長は報告を受けただけ」というのが今日の研究。 まあ、苛烈な性格というのは事実だが、長島の一向一揆皆殺しは針小棒大。なぜなら、その後の長島には「移住民の村」なんてのが無い。皆殺しされたのなら、そうしないと田畑を維持できず、何の利益も無い。また、長島は本能寺の変の際にまた蜂起している。皆殺しされてたら、蜂起はあり得ない。 また、織田信長を自閉症とする論は間違い。そういう人は、戦国の超体育会系の世界では絶対にリーダーたりえない。一番、苦手な世界である。何しろ、体育会系の世界は、論理よりも「あうんの呼吸」で意思疎通する世界なんだから。 また現代は「アスペルガー」なんて言葉は使われない。現代は「自閉症スペクトラム」である。 信長の「裏切られ率」なんだが、相続時のゴタゴタを除けば、そんなに高く無い。明智の裏切りでも全軍の6%ほど。朝倉や武田は大部分に裏切られているし、徳川家康も三河一向一揆で半分近くに裏切られている。それも家中(近臣・譜代)にである。 信長を裏切った荒木も松永も国衆(江戸時代の外様より外の存在)であり、関東なら「昨日は北条、今日は武田、明日は上杉」の連中である。江戸の外様よりももっと外の存在。

【敵】: 基本的に容赦がなく無慈悲です。長島一向一揆で2万人を虐殺し、越前一向一揆で1万2千人を虐殺して3万人~4万人を奴隷として美濃尾張で売り払ったと信長公記に記されています。天正伊賀の乱に至っては当時の伊賀の人口の3割を虐殺したらしく、日本史上で敵の女子供問わず、非戦闘員も含めてここまで執拗に虐殺した武将は信長しかいません。またしばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束したにも関わらず、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行しています。まさしく『凶逆の人』です。 【味方】: ルイス・フロイスは信長の性格について『非常に性急であり、よく激昂はするが、平素はそうでもなく、いくつかのことには慈愛を示した。自らの見識に絶対の自信を持ち、家臣の忠言には従わない』と記しています。 【同盟者】: 家康以外の同盟者とは全員拗れて滅ぼしています。常に同盟相手の方から裏切っていますが、おそらくその原因を作っているのは信長で、相手の何を刺激したら堪忍袋の緒が切れるのか理解できないのでしょう。 おそらく信長は自閉症かアスペルガー症候群でしょう。

>織田信長という武将は、自分に敵対した相手だけに攻撃を加えます。 突然『本願寺を破却しろ』と圧力をかけたり、法外な矢銭の徴収を行って民の生活を圧迫したり、両属していた緩衝地帯を一方的に奪ったり、他国豪族の領内に侵入して勝手に築城したり等々、敵対される原因を作ってるのはみんな信長の方ですけどね。 これで責任は全部信長にはない。相手が悪いんだと責任転嫁する有様が、 まるでウクライナ戦争におけるプーチン支持者を見ているようで気持ち悪いです。そもそも、不満がなければいくら本願寺に蜂起しろと言われても民衆は蜂起などしません。織田治世に大きな不満があったから反旗を翻したのです。 本能寺の変の際に長島がまた蜂起したなどというのは典型的で、すでに本願寺が破れているのに織田によほどの恨みや不満がなければ、民や豪族は強者を相手に4度の蜂起をしないでしょう。

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織田信長は、確かに残虐な面と寛容な面の両方がありました。 ・敵対者に対しては非情な態度を取ることが多かったです。例えば、本能寺の変で明智光秀に裏切られた際、光秀方の家族や家臣らを虐殺しています。また、石山本願寺への制裁では、多数の僧兵を殺戮しました。 ・一方で、味方や家臣に対しては比較的寛容でした。謀反があっても命までは奪わず、改心の機会を与えていました。例えば、柴田勝家の謀反の際、勝家を赦して改心させています。また、羽柴秀吉らの出世を認め、重用しました。 ・同盟者の徳川家康に対しては、一時期は良好な関係を保っていましたが、後に疑心暗鬼になり、家康の嫡男信康を殺害するよう命じるなど、徐々に対立が深まりました。 このように、信長は状況によって寛厳を使い分けていた面があります。しかし、全体として見れば、権力掌握のために残虐な手段を厭わない面が強かったと言えるでしょう。

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