①大坂本願寺及び一向一揆勢・・・本願寺顕如が残した『石山本願寺日記』上・下巻を読むと、顕如が一向一揆勢に対して、「死ねば天国に行けるから、戦え」「お金を送ると本願寺に寄与したことになる」と、戦って死ね、軍資金を大坂本願寺に送れと命じていたことが分かります。
一向一揆勢の中には、元武士もいますが、殆どが農民で彼らは乏しい貯えから顕如に軍資金を支払わなければなりませんでした。
これが、一向一揆勢の実態で、松平家康は三河一向一揆衆に苦慮し、信長は長島一向一揆衆、越前一向一揆衆に苦慮しました。
なお、越前一向一揆攻めと言われていますが、越前には当時、反信長派・加賀一向一揆勢がいて、それに反目した親信長派が発生し、それに怒った顕如は大坂から腹心を派遣しました。
当時、越前はこの様に、一向一揆勢が分かれていました。
②松平信康事件・・・平山優氏の信康の岡崎城での家臣である、西三河深溝城主:松平家忠の日記である『家忠日記』を読むと、信康は三河衆を味方に付けて、駿河浜松城の家康に対して謀反をしようとして、その結果、信康の正室の五徳が信長の娘だったこともあり、事前に「信康成敗」の了承を得てから岡崎城から追放したとなります。
なお、『家忠日記』には、五徳が織田家に戻ったのは、信康切腹の翌年の二月になります。
信康と五徳の間には、信長にとっては外孫、家康にとっては内孫という二人の娘がいました。
③荒木村重の謀反・・・播磨国を最初に統治し、国衆たちから人質を取っていたのは村重でしたが、信長が足利義昭と上洛直後に、使者を送って連絡を取ってきた毛利元就を信長に仲介したのが羽柴秀吉でした。
それは、書状を読むと永禄十二年からであり、信長はそれを村重から秀吉に替えてしまいました。
すると、播磨に入国した秀吉に対して、国衆たちが反目し、そこに大坂本願寺と毛利領国鞆にいた足利義昭が村重に不満があるのではと察知して、村重に近づきました。
④松永久秀の謀反・・・第一回目は、足利義昭が大和国内で久秀が戦っていた相手の筒井順慶を取り立てたからです。
その後の、第二回目は、信長が大和国内を「一国一城」にしようとして、城を破却を命じたことによります。
織田信長という武将は、自分に敵対した相手だけに攻撃を加えます。
そして、長島一向一揆勢が、本願寺顕如の指示により、長島に近い小木江城を攻めて、信長の弟:信興を自害に追い込んだからで、最初に攻撃してきたのは長島一向一揆勢です。