回答受付が終了しました

1980年代までの中島みゆきさんは、『失恋ソングの女王』と呼ばれ、自身も歌い、研ナオコなど、ほかの女性アーティストにも失恋ソングの楽曲を提供していましたが、

画像

回答(4件)

年齢的なものはあると思います。 (いつまでも恋愛ソングを書くわけにもいかないだろうし…) 90年代はとにかく「タイアップ」重視な時代でした。 提供曲にしても、94年西田ひかるさんに提供した「きっと愛がある」は可愛らしい曲です。(タイアップのキャッチコピー「アイがある」にかけています) (88年の工藤静香さんに提供した「MUGO・ん…色っぽい」はコピーの「ん・いろっぽい」を楽曲内に使うようにという指示もあった) 大きく変わったのは、88年からプロデューサーである瀬尾一三さんになってから今の感じに近づいたと思いますし、89年から「夜会」が始まっています。 (以前から、既に発表された曲はコンサートで披露する際にはCD(レコード)と同じような感じに歌わなければいけないということに対して疑問を持っていたようで、試しに違う感じで演奏しても不評だった部分からも、最初から異なる「夜会」を開いた部分でもあるようです。最初は「コンサート」の色が強かった(ある程度ストーリーはあった)のが、次第にオリジナリティが強くなっていった)

この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

1992年に、中島みゆきさんの20作目のオリジナルアルバム『EAST ASIA』が発表されましたよね? で、『EAST ASIA』を締めくくる曲として「糸」が最後に収録されています。 実は「糸」は元来、1992年に奈良県にある天理教の4代真柱である中山善司さんの結婚を祝して作られた楽曲なんだそうです。 なので、中島みゆきさんが中山善司さんと会う機会があったことで、今後の音楽活動を続けていくための助言か、アドバイスがあったのかもしれません。 それが無かったとしても、中山善司さんから「天理教はこういう宗教です」みたいな冊子かパンフレットなどの手渡しはあった可能性は考えられます。 要するに、楽曲作りをするのに、多少なりとも天理教の影響を受けてしまった可能性は否定できません。 天理教の影響を受けてなくとも、中島みゆきさんの幼少期から大人になるまでの間に関わった宗教の教えを思い返すようになったかもしれません。 だから、「生きる力になれるような楽曲作り」が増えていったのかもしれません。 あくまでも僕の推察です。

私もみゆきさんが年齢を重ねたから、と思っているところあったのですが「時代」がかなり初期の作品だとすると、根底にあったのは実は後期と思われているほうこそ、なのかなと思います。 そう考えると「糸」も中期頃なのだけど、あの頃のリアル世代はあの曲をほぼほぼスルーしていた、と言わざるを得ないわけで。 従って彼女の楽曲を迎えるほうが、彼女の送り出すものを変えてきたのでしょうね。 それは商業である以上、至極全うだと思います。 余談ですが失恋ソングの女王、とした部分もあの方との失恋話はかなり有名であったため、世の中が喜んで享受した感ありますよね。

既に貴方は自身の中で回答を得ていると思うので簡単に述べますが、貴方の指摘する変遷は、人の感情の負の部分と言うか怨念と言うか"悪女"から弱者への共感や絶望から希望への転換を促す"女神"への変化であり、その根底には彼女の中では何も変わらず一貫しており歌詞だけ抜き出しても短編詩集として文学的価値あると思います。 中島みゆき自身が"昔の歌を聴きたくない"(土用波の歌詞より)と感じたのではなく、時代の変化へ彼女自身の変化を併せて、誰しも人間の中にある天使と悪魔、又は天使と堕天使の部分を昇華させたのではないかと思います。人は皆それぞれ他人には言えない"重き荷を負いて"いるからこそだと思います。 それを可能としてるからこそ多くの同業者、特に女性アーティストが共感して楽曲提供を依頼しているのだと思います。それはアイドル歌手にまで及んでおり、軽く扱われがちなアイドル歌手に重厚さを加味させる事を可能とするのは"あなたでなければ"と思わせる存在であり、中島みゆきと言う天使と悪魔の真の最終決戦を今後も見続けたいと思います。 悪女 https://youtu.be/ZkyCrUolctw 最後の女神 https://youtu.be/yd-OPEcJKaQ 土用波 https://www.nicovideo.jp/watch/sm43573055 重き荷を負いて https://youtu.be/GQs46RU3nxQ あなたでなければ https://www.nicovideo.jp/watch/sm43573027

画像