小説になろうの作品の書籍化されたものはいい作品が多いと思います。 なぜ、文学賞の作品と比較されて貶されるのだと思われますか?
小説になろうの作品の書籍化されたものはいい作品が多いと思います。 なぜ、文学賞の作品と比較されて貶されるのだと思われますか? もちろん、内容がアニメっぽく人によっては不快感や嫌悪感のある作品も多いと思います。 しかし、感想やレビューを読んでいると「生きる希望を貰えた」、「毎日の楽しみだった」、「辛い現実を忘れられる」、「読んでいて勇気を与えられる」、等いい面も多い作品も多いです。 それでも、文学賞を受賞には決してならないと思います。 しかし、人々の考えを深めることはできなくても、小説として楽しませ、心を憩う場所になれる、いい作品も多いと思います。 確かに、日本文学の流れとは全く違う内容の書き方の流れだとは思いますがそもそも日本文学には足りない面が多いと考えます。 それを補い、または革新的な面を助長する、そのような小説としての希望が小説家になろうの作品には見受けられると考えられます。 それでも、文学賞に値する長編小説とは全く違う評価がなされることだと思います。 しかし、それはどういった意味があるのでしょうか。 新しい試み的な作品はなぜ、文学として受け入れられないのだと思われますか? 勿論、文学的な観点から見れば、足りない箇所が多いのかもしれないし、文学賞に値する作品にそれが多く見られるなら、そちらの作品群の方が高く評価されてもおかしくはないと思えます。 ただ、日本の文学には、人々の人格を陶冶する側面はあっても、生きる希望や心の休息など、明るい暖かい面は小説の作品にはあまりないと思えます。 それはなぜでしょうか。 児童文学の方に大人が傾倒するおかしな現象が見られますが、それは、大人向けの文学にそのような求められる傾向の作品が無いからではないでしょうか。 致し方なく、児童文学に大人がのめり込む、おかしな現象をくい止め、社会現象をむしろ論じ合い、考えを深耕するには、今の日本文学では足りない面が大きいと言えるのではないでしょうか? それは新しい作品の気風が間違っているのではなく、文学的な作品の欠点ではないかと推察します。 それなのになぜ、文学賞の取れる作品に価値を置く人は新しい気風の作品を同時に貶しそのせいで文学は衰退していると言い切れるのでしょうか? それは間違いであると思います。 日本の文学は歴史的に開かれたものではなかったように思えます。 読者として、せいぜい本を読むくらいで、出版社に何ら意見も出せなかったように考えられます。 それでもしかし、昔の文学の方がましだったと言えるのはなぜなのでしょうか。 私はそれが知りたいです。 文学に詳しい方、よろしくお願いします。 当時の勉学と言えば、大学に入ることはおそらく今よりももっと困難だったはずですし、研究や国への意見など到底言えた状況ではなかったと思われます。 そこで、文学による社会への洗脳があったとも思えるのです。 そうではなくても、戦争を回避する能力を国民に与えることはできませんでした。 そこで、文学のあり方は多少なりとも違っていたのだと思われます。 ですので、文学とは何かを教えて欲しいです。 日本の文学は少なくとも、国民の気持ちを救えなかったのだと思っています。 それに比して、新しい気風の小説はその文学の流れにも劣ると言い切れる、理由を教えてほしいと思っています。 お時間のある方はよろしくお願いします。 文学とは、何のためにあるのでしょうか?それは、実際に役に立っていますか? 今のこの現実に、どのように作用しているかも教えてくださると助かります。 私は、文学賞のある作品だからとて、娯楽以上の意味を感じません。 そこまで思い詰めて考えなくてもいいと分かっています。 しかし、そもそも文学賞について疑問が多く、当時の文学の成り立ちから疑問が拭えません。 日本の文学は西洋の真似だと思います。 それにしても、完全には真似きれず、本質もないものをなぞっているだけのように思えて仕方がないのです。 はっきり言って下らないと思います。 それに比べるとまだましなのではないでしょうか?
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