回答(2件)

引きもそうかもしれませんが、やはり実務能力、事務能力に優れていたということが一番でしょう。 初代高杉だけではなく、その次の赤根武人にも重用されていましたので。 当時の志士の大半は、文章もまともに読めない、かけないレベルで実務能力、事務能力がなかったのです。 新選組の斎藤一は、「われわれは『学』がないので文章も読めない、意味もわからないで、清河の署名文に署名してしまった。志士の大半はそんなものだった」と言ってますからね。 奇兵隊は農民や庶民の集まりでしたから、例外的に実務、事務能力ができた山縣は奇兵隊になくてはならない人材だったのです。 維新後も彼がいないと陸軍は回らない状況でした。 なお、同様に維新政府で実務能力で出世したのが伊藤博文であり、また維新の功績はなかった肥前の大隈重信や江藤新平たちでした。

この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

最初はそうでしょうね。 高杉という人は、プランナーではあっても、 実務家では無いから、奇兵隊の運用には、 山縣有朋のような実務家が不可欠でした。 だから、奇兵隊の武力を背景にして、 長州藩内で、山縣有朋の発言力が高まり、 次いで、西郷隆盛から目を掛けられた事で、 一躍、明治新政府の中枢人物として、 存在感を発揮しました。