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古代の天皇(当時は大王か?)は豪族らによる話し合いで決まりました 平成30年度聖徳太子シンポジウム https://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/manabu/online/2018/shotoku2018/ 基調講演「聖徳太子の時代と文化」吉村武彦(明治大学名誉教授) >推古天皇は、日本で最初の確実な女性天皇である。当時天皇を選ぶのは、群臣の仕事。つまり新しい天皇の即位は群臣の推挙によるのである 山背大兄王(上)聖徳太子の嫡男、「万民を煩わさず」と一族で滅ぶ https://www.sankei.com/article/20151002-W3V7W6HAERKNXNCZ5D4C5BSDEM/ > 「日本書紀」によれば、女帝は亡くなる直前、まず田村皇子を枕元に呼び、「天子の位を継いで国を治めるのは大任だ。慎んで軽々しく口にすべきでない」とアドバイスした。さらに山背大兄王には、「お前はまだ未熟だから、心中期するところがあっても、あれこれ言うな。必ず群臣の言葉を聞いて従うように」と諭した。 > > これだけだと、女帝の意向がどちらにあったかは、よくわからない。山背大兄王は年齢的に若く、田村皇子に期待しているようにも取れる。しかし重要なことは、この時期、天皇であっても後継指名は簡単にはできず、次期天皇の推戴(すいたい)には何より、「群臣の合意」が重要だったということであろう。 日本大百科全書(ニッポニカ) 「忍坂大中姫」の意味・わかりやすい解説 https://kotobank.jp/word/%E5%BF%8D%E5%9D%82%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E5%A7%AB-1063267 >反正天皇没後、夫の雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)皇子(のちの允恭天皇)が群臣から推挙されたにもかかわらず、病身を理由に即位を固辞したため、妃の忍坂大中姫はみずから手洗水をとって、即位を懇願し、即位を決意させた。 富田林市史 第一巻 (本文編Ⅰ) / 古代編 / 第一章 大化前代の富田林地方 / 第三節 飛鳥朝と南河内 / 一 大伴氏の栄光と没落 https://adeac.jp/tondabayashi-city/text-list/d000010/ht000506 > 武烈の崩後、後嗣がないので、大伴金村は群臣とはかり、倭彦(やまとひこ)王(仲哀の五世孫)を丹波国桑田郡(京都府亀岡市)より迎えようとした。しかし王が逃亡したので、再度群臣と議して男大迹(おおど)王(応神の五世孫)を越前(福井県)より迎え、河内国樟葉(枚方市)に即位させ(継体天皇)、自らは大連となった。 改訂新版 世界大百科事典 「葛野王」の意味・わかりやすい解説 https://kotobank.jp/word/%E8%91%9B%E9%87%8E%E7%8E%8B-1066283 >696年(持統10)7月太政大臣高市(たけち)皇子の没後,宮中で皇太子を決めるための会議が開かれた。群臣から多くの意見がでて紛糾したとき,王は〈日本は神代以来子孫が皇位を継承してきた。もし兄弟が皇位を継承すれば乱がおきるだろう。天意はだれも推測できないが,人間関係からいえば後継者は当然決まっている〉と述べた。天武の子弓削(ゆげ)皇子が一言いおうとしたが,王が叱りつけて止み,翌年8月文武天皇が即位した。

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皇太子(日嗣の御子)が天皇になります。 皇太子を決めるのは時の天皇です。 ただし天皇の権力が弱いと、臣下や先帝の意見を呑まなければならないことがしばしばです。 律令には皇太子についての規定があるはずです。

蘇我馬子のように自分の意のままに なるような天皇を即位させたり 即位後に自分に刃向かいそうな天皇 を排除して帝位スゲカエを露骨に 実行~というのが古代ではアルある ~だったみたいですね。