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日本史についてです。 卑弥呼=日巫女(太陽を司どる巫女)である可能性はありますか? 個人的な意見にはなりますが、日本では大昔、「ヒミコ様、ヒミコ様」と役職名のような

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主旨は概ねは合っていると思われて、『魏志倭人伝』では官名とカバネと個人名の区別がついていない様です。 卑弥呼というのは日御子の僭号の対音漢字であろうというのが穏当な説です。 皇室の故地である北部九州にはもともと、遅くとも紀元前二・一世紀には天照大神が伝承されていたことが明らかで(吉武高木遺跡)、弥生文化を受容した稲作先進地で日神を信仰していたことは自然のことです。 やがて弥生文化は南部九州に南進し(天孫降臨)、一世紀前後に皇室は畿内へ東進して大和朝廷を成立させ、三世紀前半の崇神天皇朝には九州系の日神と畿内系の三輪山の信仰を融合させて発展します(纒向遺跡)。 一方北部九州でも、倭奴国王や吉野ヶ里など各地での発展を経て、畿内の大和朝廷の崇神天皇と同時代の三世紀前半に、北部九州に集結した女王国連邦を卑弥呼が統括します。 つまり、三世紀前半に九州地方にいた卑弥呼が、紀元前の九州出身の天照大神を知っていたことは極めて自然なことであり、日御子を僭称していたとしても少しも不思議ではないと考えます。 確かに、卑弥呼は鹿卜を行って国民を励ましていた、まさに巫女ではあった様ですが……。

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卑弥呼=日巫女(太陽を司どる巫女)である可能性はありますか? ヒコとがヒメは、意味合いは日子、日女ですから、(太陽を司どる巫女)で間違いないと思います。 日本では大昔、「ヒミコ様、ヒミコ様」と役職名ですね。その通りです。役職名ですから何人もいました。法王見たいなもんですね。 つまり、「卑弥呼」というのは卑弥呼本人の名前ではなく、「巫女様」という役職に太陽の巫女という意味で「日巫女様」という形で呼ばれていたのかなと考えています。 それはそうなのですが、卑弥呼の時代には塞ノ神信仰の日の巫女の他、道教の星神信仰と宇佐族の月神信仰が有りましたので皆卑弥呼ですので、女性の祭祀王を姫巫女と呼んでいたようです。 「陛下」とは、階段の下と言う意味です。階段の上に居たのが卑弥呼のような神の言葉を司る巫女の祭祀王がいたのです。実際の政治をする統治王は、階段の下の陛下となります。そういう仕組みだったと言うことです。 役職名の他に本名がありますが、後の世に、贈り名がが付けられたので名前が違う現状となっています。 また、日本の歴史書に記載がないとミステリー化されることが多々ありますが、当時は文字もなく、歴史書に記載がないことは当然だと思いますね。 役職名は残っていないかもしれませんが、何人かの卑弥呼の贈り名も本名もしっかり日本に残っていますよ。 (漢字の本格的な輸入は400年ごろから、また歴史書の編纂は700年ごろから。) その通りですが、日本には神代文字も存在しその約もできますし、世界中に神代文字が残っています。ghpが、消した事ですね。 ・卑弥呼は邪馬台国(ヤマト国)に存在し、 その通りだと思いますが、邪馬台国は、時代と共に移動しています。倭国大乱があり、勝った国は負けた国を領土としますし、負けた国は逃げた先で国を作ります。女王も何人かいて更に移動もしていますから、時間と共にめまぐるしく変転したのが真相です。 鬼道とは、道教の事であり道教は、徐福がもたらしたものです。徐福が日本に星神信仰を残し徐福が連れてきた呉や斉の技術者集団の中心が道教で、九州の志賀島を玄関とし吉野ヶ里を本拠地として、九州物部勢力となっています。天孫族ともいいます。鏡の祭祀をします。 魏の時代には大陸の道教は、魏の敵対勢力となっていましたので、鬼道と表現したのです。敵対勢力と同じ鬼道邪馬台国が、魏を後ろ盾とし権威を得たのは、日本海の覇権に勝つためにどうしても倭国の水軍を見方につけたかったのです。 ・大きな国家(連合国)であったことから、四国説を採用すれば、徳島県一帯の周辺をを支配することで国家の礎を築いていた。 卑弥呼は、複数人いますし、女王は移動もしていますから四国説ではなく、四国にも卑弥呼がいた時代があったと言うことです。 ・壹与トヨと読みます、トヨスキイリヒメの事です。(次代女王)トヨは、豊の国の宇佐の巫女、魏から金印をもらった巫女の娘です。こちらは、主に月神信仰ですが、徐福から宗像経由で道教も継承した方です。豊の国から13才で、畿内に入っています。なので豊から来て入った姫、贈り名がトヨスキイリヒメなのです。 の時代には内戦が収まったとあるため、鬼道と神に通ずる女性を以前から大々女性を指導者として君臨させていた可能性が高い。 ちょっと違ってますね。ここは、非常にに複雑で長い話になります。 倭国大乱を納めた卑弥呼はモモソヒメです。四国阿波出身でこちらは、バリバリの出雲系の塞ノ神信仰で、太陽信仰です。銅鐸祭祀から戦いに勝つ為の銅鉾祭祀にうつりかわりました。モモソヒメは、倭国大乱の時は、髙松にいましたが、祭祀王に選ばれた後に畿内入りして、三輪山付近で太田氏と共に祭祀を行っていましたが、この頃鏡の祭祀が入ってきました。次の男王比古布都押乃信命の時代に、金印をもらった方の卑弥呼が、攻めてきてこちらは、広島で病死しましたが、九州物部が畿内を制圧し、その後トヨが畿内に入りました。それからが、畿内が、邪馬台国(ヤマトコク)です。 ・この権威により連合国家を形成しており、かつ狗奴国と対立関係にあった。 狗奴国は、主に出雲の事ですが、九州から東北まで交易がある強大な国でしたが、倭国大乱で分裂し、かなりの移動がありました。始祖がクナト大神ですから総称をクナ国とよびました。 但し、狗奴国とはジリ貧であったため魏国との交流関係を深め、狗奴国との戦争状態に終止符を打とうと画策していた。 そこは、その通りです。画策したのは、九州の卑弥呼です。 魏志倭人伝は、卑弥呼が亡くなった頃産まれた陳寿が書いたのですが、又聞きですし、最初は採用もされず放置され、何十年かして掘り起こしましたが、意味がわからないところは、漢の時代の資料を採用してますし、ナシメの策略や通訳の問題もあり、複数人の卑弥呼が一人の人物となってますし、目まぐるしい激動の70年位を点でとらえた為に邪馬台国の移動がわからなくなっていますのでかなりでたらめなつじつまの合わない書物となっています。 九州説とか四国説、畿内説全て邪馬台国ですし、時代が少しずれた邪馬台国の移動がわからないだけの話となります。 魏は、当時三國志の時代でどうしても日本海の覇権が欲しかった。そこに畿内に進出したい九州物部豊連合から使者がくる。魏には、漢の時代からの倭国の資料があった。畿内の磯城王朝が西日本を制圧していたが、倭国大乱となって九州勢の東征があった事は知らなかった。通訳のナシメの言うことを信じて九州物部豊連合と同盟を結び金印を授ける。加勢の為の使者も送った。モモソヒメが亡くなった頃、畿内へ総攻撃。制圧した。こんな流れです。 50年位後に魏志倭人伝が再編集されたと時に、二人の卑弥呼が一人にまとまってしまい、今に至る。有明海の山門にあった邪馬台国は、トヨの時代には畿内に移り変わった。と言う事です。 続きの話になりますが、敵対勢力にヒミココがいます。なんの事か分かりにくいのですが、 豊の卑弥呼の子供にトヨスキイリヒメがいましたが、兄弟がいて贈り名がトヨスキイリヒコです。 腹違いの兄がイクメイリヒコの贈り名が垂仁天皇です。イクメイリヒコは、後継者争いでトヨスキ兄妹を追い出したのです。逃げた先で出雲と合流しています。卑弥呼の子のヒミココは、邪馬台国の敵対勢力になったのでした。

>・大きな国家(連合国)であったことから、四国説を採用すれば、徳島県一帯の周辺をを支配することで国家の礎を築いていた。 まず、四国説などと唱える場合、 論拠においては魏志倭人伝では無いという事になります。 この時代含め、他の文献史書等に論拠根拠となるものがあるのかどうかという事ですね。 また、邪馬壱国や卑弥呼なども無いという事になります。 つまり、仮説でもなく、単なる泡沫主張という事ですね。 従って、 他の意見のまとめとしては、根本的に破綻していますので、 すべてにおいて、整合性も取れず矛盾のみだけですので、 完全なる間違いという事になります。 尚、 私の勘違いであるのかもしれませんが、 歴史事実などではなく、 邪馬台国四国説という、想像空想歴史ファンタジー物語という事であれば、 何ら否定するものではありません。

そうですか。 学術的な遺跡が徳島からも発見されていますし、大量の古墳も徳島県から発見されています。大量の「古墳」があるということは、何らか、権力は弱くとも一族の墓である可能性も高い。 また、日本で最古とも言われる古墳も発見され、初めて「古墳」という形で埋葬された、何らかの権力者が存在したと見ることができますし。 しかも、その古墳は前方後円墳です。 近畿や九州でも、大きな遺跡などが見つかっていますが... しかし、近畿では方位や行程の整合性が取れず、九州ではあまりにも距離が長いという、「各説の弱点」は何らか存在しています。 ファンタジーで在り泡沫というのは、まだ「決めつける」には早計じゃないでしょうか。

卑弥呼=日巫女説は古くから言わているところではあります。 ただ、この説の端的な弱点は卑弥呼の後を継いだ台与(壱与)は何なのかというのが説明出来ないところです。 (卑弥呼と日巫女は中国語の発音が違うのでそもそも関係ないなどの反論もあります。) 卑弥呼が陛下や天皇陛下のような敬称や役職名なら台与も卑弥呼じゃないのかということになります。 卑弥呼単体で見たときには卑弥呼=日巫女も納得感がありますが、台与とは何なのかに合理的な説明が付かないと難しい論だと思います。

なるほど。色々と調べてみましたが、中国語との発音が古代日本語と異なるということが言われているようです。 また、現代では「ヒミコ」ですが、古代日本語では「ピェミィコォ」に近く、「は行」が「ぱ行」である可能性は高いと言われていますね、 「呼」という字は当時の中国語で「Wo」と発音されている可能性が高いことから、「ピェンミィウォ(ヲ)」と発音されていた可能性も指摘されていますね。 となると、現代語に直すとなると「ヒミオウ」や「ヒノオウ」と説明(発音)されていた可能性があります。 となると、太陽の王ということで「日見王」や鬼道を司どる王として、「火の王」と呼ばれていた可能性も指摘されます。 壹与に関しても、「ミオウ」や「ミウォ(ヲ)」と発音されていたと考えれば、「〇〇の王」として共通する部分が取り上げられるのではないでしょうか。別人であるため、記録される文字も異なると説明できそうです。

可能性はありますが、あくまで一説に過ぎません シナの歴史は特に外国のものはテキトーに書かれているので、日本史として採用するのは危険が伴います