実体のない架空の神などを信仰する宗教と異なり、現実に功徳と成仏の実証を示すことができる。これが仏教の最も良い点です。しかし、仏教といっても様々な教えがあります。仏教の中で最も正しいのは、万人成仏を説く「法華経」であり、末法においては、法華経の文の底に沈められ秘められていた「南無妙法蓮華経」という法が、仏教上正しい教えとなります。
宗教に対する一般的観念といえば、「神や仏におすがりして救済を求める」という“おすがり信仰”的なものです。しかし、宇宙と人間の生命を貫く根源の法である南無妙法蓮華経の信仰は、その大いなる力で人生上の様々な問題を解決していこうというものです。いわば「神頼み」ではなく「自分頼み」の信仰です。
神や絶対者などを信仰してその救済を待つ宗教は、自分が救われるかどうかは、あくまでも神などの意向次第という「他力本願」です。「今の苦しみは神の与えた試練なのだから、ひたすら耐えなさい。それがあなたの運命なのだ」などと、あきらめを説く神信仰もあります。救済を放棄したわけです。結局、実体のない想像上の神・絶対者では、いくらそれらに祈っても現実に救う力は涌いてはこないという限界を露呈しているわけです。
一方、「南無妙法蓮華経」の信仰は、幸・不幸の原因は神になどではなく、あくまでも自分自身にあるとし、自分の運命は自分の力でいくらでも変えていけるものです。そこには神などの意向といったものは一切関係なく、自分を変えるものはどこまでも自分の一念によるという「自力本願」の宗教なのです。
「南無妙法蓮華経」という法は、言ってみれば、神仏におすがりして救われるのを待つのではなく、自分から運命に体当たりして運命を揺り動かし、運命を変革していくためにある法です。おすがり信仰でない以上、運命変革はあくまで自分の意志によります。南無妙法蓮華経を真剣に唱え、その上で人生における困難解決のための努力も現実に行う。そこに、信仰と努力が相まって、困難を乗り越えて功徳が生じるのです。
仏教の創始者である釈尊の正統なる後継であり、南無妙法蓮華経という法を民衆に示された日蓮大聖人も、「頭(こうべ)をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」(「日眼女造立釈迦仏供養事」、〈通解〉頭を振れば、髪が揺らぐ。心が働けば、身体が動く。大風が吹けば、草木も揺れる。大地が動けば、大海も荒れる。同じように、教主釈尊を動かせば、揺るがない草木があるだろうか。騒がない水があるだろうか)と仰せです。ここでいう「教主釈尊」とは、大聖人が書写された南無妙法蓮華経の御本尊のことです。一念を定めて御本尊に南無妙法蓮華経と唱えれば叶わない祈りなどない、ということです。真の仏教とは、何かに救われることを期待して待つものではなく、「よし、必ずこの困難を乗り越えてみせる」という決意を伴った、自立的な祈りをするものなのです。
そして、この南無妙法蓮華経を、大聖人の御指導に我見(自分勝手な見方)を挟んで違背することなく、大聖人直結で信仰し流布しているこの世で唯一の教団が、創価学会なのです。末法において正しい仏教の系譜は、創価学会のみに受け継がれているのです。