最新の本能寺の変に関する学説はどのようになっているのでしょうか? ・明智光秀怨恨説 ・黒幕説(足利義昭・徳川家康・羽柴秀吉・イエズス会など)

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斎藤忠氏が提唱された「織田信忠黒幕説」は、信忠は信長から家督は譲られているが、「織田政権」を譲れと御所巻をして要求したのが本能寺の変だったという説です。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

ありがとうございます。

お礼日時:11/7 19:31

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現状では単独犯突発説が有力で、突発のトリガーとして四国問題が有力でしょうか。 令和に入ると朝廷黒幕説とイエズス会黒幕説はほぼ否定的、秀吉黒幕説も千田嘉博の台頭で城郭考古学の見地から秀吉が山陽道に築いた「御座所」と呼ばれた拠点があり、それがあれば大返しの補給・兵站は可能という結論に達してこれも下火に。 唯一信長の唐入り阻止を目的とした計画的行動と主張して譲らないのが作家明智憲三郎だが、呉座勇一をはじめとした学者層から荒唐無稽と否定され、こうなるとエビデンス・コンプライアンスに厳しいメディアから敬遠される始末。

織田信長と織田信忠の反目は実は下ら ない理由から~信長が信忠に能道具~ 一式を贈った。すると信忠は能に凝り 出して自分で能を披露する催し、まで するほどになったのを信長が武者たる もの芸事に没頭したら武略が疎かに なると叱責して贈った能道具を没収、 これが親子不和の実態であったという そうです。時の天皇も織田信長親子の 仲違い心配なされ、どういう事なのか 調べよと命じられ朝廷が動いたよう~ ですが叛乱が起きるような物騒なもの ではない~信長親子の不和は解消済み ~となったので~その件は落着したと いうそうです。そのあたりの経緯は 「織田信忠」(中公新書)に書かれて います。

one~何とか言うストーカーが ベストアンサーくれと言って 下でウルサイですからコイツを ベストアンサーにして、さっさと この質問は解決にしてしまって ください。コイツが調子こいて 返答を繰り返し続けたらキリが 無くて見苦しい長文祭り、に なってしまいますので。

確か明智光秀が書いた書状が見付かり、このまま織田信長が日の本を統一してしまうと、唐入りを決行するので日の本が駄目になってしまうから謀反(本能寺の変)を起こすと書いてたそうですよ。 それから明智光秀が本能寺の変開始時に言ったとされる「敵は本能寺に有り」は、嘘です。後世のねつ造だそうですね。

私は光秀怨恨説を支持しますがその決起に当たっては確実に仕留められるを最後まで判断が付けられず決心したのは信長が百人程度の近習のみと信忠の兵が1000人足らずであったことが分かった時点だと思っています。その為、光秀は信長親子を殺すまでは予定通りだったかもしれませんが最も味方にとおもっいてた細川親子と筒井順啓、高山右近などには根回しが足りず賛同を得られなかったんだと思います。その結果、畿内の勢力を固められずまた秀吉の東進の速度も思いのほか早く全てに置いて準備が整わない状態で山崎で合戦となり破れました。 光秀は文官としては優秀で右に出るものもいなかったでしょうが武官としては一司令官止まりで天下を収めるにはその器量が少しばかり足りなかったように思います。仮に秀吉が謀反を起こすとしたらとりあえずの敵対勢力、例えば柴田勝家などに対して幾重にも工作をし懐柔を図り脅かしどのような状態になろうとも勝ちを見出していたと思います。その前に信長健在なら袖吉なら謀反は起こさないでしょう。信長をも懐柔していたのですから。光秀は優秀であるからこそ相手の利益まで読み切った、しかしそれは大局ではなく時勢でもなくただ己の古い伝統などの概念だったのだと思います。

一番有力な説は 四国説です。 個人的にはこれが事実だと思ってます。 ●明智光秀が長曾我部の申し次だったこと。 ●明智光秀の腹心、斎藤利三は長曾我部元親と親族の関係にあったこと。 ●信長は三好との講和の関係で、長曾我部との約束を反故にし、長曾我部には土佐一国しか認めなかったこと。 ●長曾我部元親は断じてそれを認めなかったこと。 ●ここは想像ですが、長曾我部は斎藤利三経由で信長を説得して欲しいと頼まれた可能性。そして、斎藤利三は主君の光秀に頼んだ可能性。一番の腹心である斎藤利三の頼みを光秀が断れなかった可能性。 ●明智光秀は実際に信長に面会して説得したが、信長の怒りを買い断られたこと。 ●信長は長曾我部討伐を正式に決定し、大将として織田信孝、副将として丹羽長秀を任命。通常、申次は軍勢に加わるのが通常だが、明智光秀には声がかからなかったこと。 ●ここからは、織田信長と織田軍団の最近の情勢。一番の宿将であった佐久間信盛が本願寺討伐の停滞を理由に追放。林秀貞は最古参の家臣だが過去に信長と対立したことがあり、それを理由に追放。安藤守就もかつては美濃三人衆として重宝されていたが、突然、謀反を疑われ追放。 恐らく信長は全国の天下統一が見えてきたことで、必要がない、若しくは将来的に邪魔になると思われる家臣の粛清を始めていた可能性。そして、明智光秀を含む家臣達はそれを肌身で感じていた可能性。 ●明智光秀は今回の長曾我部問題で信長と意見が対立し、四国遠征にも呼ばれなかったこと。そして、もう1つ、斎藤利三の帰属問題で信長の助言を退けていることなどから、信長の粛清リストに載り、将来に粛清されるかもしれないと不安を感じていた可能性。 秀吉黒幕説、家康黒幕説、キリシタン黒幕説、朝廷黒幕説は真実味がなく飽くまで空想に空想を重ねた説だと思う。 唯一、足利義昭黒幕説は可能性があると思うが、飽くまで、上記のような明智光秀側の理由が主であり、足利義昭がそれに乗っかったというのは可能性があるかも。