漢文の授業で鴻門の会を学習しただけでは、
前後関係が分かりにくいかもしれません。
鴻門の会のエピソードは、歴史書の『史記』の中の項羽本紀の一部になります。
世界史でも学習すると思いますが、始皇帝が亡くなった後、
陳勝と呉広を中心とした農民反乱が起きました。
陳勝たちは敗死したのですが、始皇帝が滅ぼしたかつての戦国時代の
楚の国などが復活し、秦の国に反撃し、最終的に秦を滅ぼしました。
鴻門の会は、その前後の話です。
項王とは、項羽のことです。
項羽は楚の国の将軍でした。
項羽の祖父は始皇帝の将軍に殺されて、楚は滅亡していたため
項羽は秦に対して激しい恨みを持っていました。
沛公とは劉邦のことです。
劉邦は沛県の農民出身でした。
劉邦は陳勝・呉広の乱のなかで反乱軍の中に加わり、
その後、楚の武将になりました。
楚の王は、項羽と劉邦に対して、別々に秦を攻略する命令を出し、
いち早く秦の首都の咸陽を陥落させた方が、関中(咸陽のある地域)の王
にしようという約束をしました。
そのため、項羽と劉邦の競争が起きたのでした。
>沛公が先に咸陽に入っていったことは?
この競争に勝利したのが、劉邦だったということです。
劉邦は、なるべく戦いを避け、スピード重視で咸陽を目指しました。
一方、項羽は当時最強の武将でした。
そのため、敵をすべて叩き潰しながら移動したため、
行軍がゆっくりになってしまったのでした。
鴻門の会という事件が起きる原因は、
項羽が自分は最強だと思っているのに、
先に劉邦が咸陽に入城してしまったのが生意気だと思い、
腹を立てていたからでした。
実際に、兵力でも項羽軍は40万人いたのに対し、
劉邦軍は10万人程度だったようで、正面から激突すれば
劉邦は負ける状況でした。
そこで、劉邦と参謀の張良は、項羽にあやまって許してもらおうと、
鴻門に駐屯していた項羽の元を訪れたのでした。
一方、項羽の参謀の范増は、劉邦は天下取りの最大の障壁になると
考えて、彼を殺そうと企んだのでした。
樊噲は劉邦と同郷の武将です。
もともと友人同士という関係です。
鴻門の会(劉邦と項羽たちの酒宴)が進むにつれ、
劉邦がピンチという状況が伝わってきたため、
後半になって樊噲が助けに入りました。