鎌倉幕府は九州を支配下に置いていましたか?

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鎌倉幕府は、全国の知行国に、守護、地頭を設置し、支配下に納めました。 室町幕府は、一般に、将軍と、守護大名との、主従関係が希薄で、力が、弱かった。 特に、創設時は、南北朝が、並立した、不安定な時代で、 九州地方は、反幕府の南朝に従う者が多く、また、尊氏の妾腹のこ、直冬が、尊氏に反抗し、兵をあげるなどして、 混乱した地域です。 といいつつも、3代義満の時には、そこそこ安定期を迎え、九州地方も、支配下においています。

コトバンク(↓)で、九州探題を引くと… https://kotobank.jp/ 例えば、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説には ~~ 九州探題 きゅうしゅうたんだい 室町幕府が九州統制のためにおいた職名。延元1=建武3 (1336) 年2月鎮西に逃れた足利尊氏が,同年3月筑前多々良浜の戦いで勝ち,同4月東上の際,一色範氏を鎮西探題として博多にとどめたのに始る。範氏は,所領など経営基盤が弱く,また少弐氏など在来の九州守護との対立があったため解任希望を数回出した。以後,観応の擾乱の際は足利直冬に,さらに征西府 (宮方) の勢力に押され,概して九州の幕府方は劣勢であった。建徳2=応安4 (71) 年,今川貞世 (了俊) の補任,下向で,征西府が破壊され,ようやく幕府方の九州制圧がなった。これより「九州探題」と呼ばれた。今川了俊は九州で領国形成の傾向を強くし,応永2 (95) 年8月幕府から解任され,翌年4月渋川満頼が就任した。以後,渋川氏が世襲,応仁の乱後は有名無実となった。 ~~ かなり弱体とは言え、一応九州が幕府の支配下に入ったって事ですね。ですから、「室町幕府では九州は《直接の》支配下に入っていない」とか「室町幕府では九州での支配力は弱かった」とかは言えても、「室町幕府では九州は支配下に入っていない」といったら、そりゃ『ウソ』と言うべきでしょうね。 因みに、同じくコトバンクで鎮西奉行を引くと、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説には ~~ 鎮西奉行 ちんぜいぶぎょう 鎮西守護ともいう。鎌倉幕府が鎮西統治のため設けた出先機関。文治1 (1185) 年天野遠景が任じられ,全九州に及ぶ武士統轄権を有した。遠景のあとは武藤資頼,次いで子資能が就任している。しかしこの間各国守護の設置によって鎮西奉行の権限は分化縮小した。終末は不明。蒙古襲来後,弘安9 (1286) 年の鎮西奉行人は鎮西談議所の構成員で,上記の鎮西奉行とは職権を異にする。永仁1 (93) 年には北条兼時に始る鎮西探題 (→九州探題 ) が設置され,北条一門がその任にあたり,英時のとき,少弐,大友氏らに攻められ,幕府とともに滅亡。 ~~ 鎮西奉行(鎮西守護)の実態は今一つはっきりしませんが、それと後に鎮西探題(室町時代の九州探題の前身)とあわせて、九州が鎌倉幕府の支配下にあったからそういう役職があったのですよ。

後醍醐天皇の建武の新政な、元は鎮西将軍とか九州深題とか九州は軍事都市としての役割があったからそんなセクシーな話しになったんだね。足利尊氏が逃げたとかそういうセクシーな事は周知の通りだ。