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>鎌倉幕府は九州を支配下に置いていましたか? はい。 事実上鎌倉幕府の影響力を行使できる地でした。 そもそも九州3人衆とも言うべき島津、大友、少弐は鎌倉時代初期に九州へと下向したり、守護職を任じられた氏族です。 そして京都の六波羅探題のように、九州地方にも元寇の後には鎮西探題が設置されてもしていました。 >室町幕府では九州は支配下に入っていないと書いてあります 室町幕府の初期には、九州は室町幕府の影響力が少ない地となっていました。 足利尊氏が一度戦いに敗れて九州へ下向した時には、足利尊氏勢力(武家方勢力)が九州をほぼ影響下に置いた事はありましたがそれはまだ室町幕府成立前です。 その後、室町幕府初期には「観応の擾乱」などの内乱などの影響もあり、九州は北部を除いて室町幕府の影響下には有りませんでした。 しかもその影響力も短期間で、室町幕府が先の鎌倉幕府の鎮西探題に倣って設置した「九州探題」もやがて南朝方勢力に九州から追い出されてしまいました。 九州はその後約11年間に渡って正に「南朝王国」とも言うべき状態となり、室町幕府の支配下・影響下にありませんでした。 そして室町幕府第3代将軍足利義満時代に彼を補佐する管領の細川頼之が派遣した今川貞世(了俊)が「南朝王国」勢力下の大宰府攻略に成功した事で、やがて九州は室町幕府支配地となって行ったのです。 以下は参考までに。 鎌倉幕府の九州支配の象徴は大宰府に設置された「鎮西探題」でした。 ところが鎌倉時代末期、後醍醐天皇による討幕の動きが活発化しました。 元亨4年(1324年)の「正中の変」は失敗しましたが、 元弘元年(1331年)に後醍醐天皇自身が討幕を宣言して挙兵しました。 しかしこれはすぐに鎮圧されました。 元弘2年(1332年)3月に後醍醐天皇は隠岐の島に配流。 しかし年末には護良親王、楠木正成らが挙兵。 翌年元弘3年(1333年) 楠木正成の奮闘により鎌倉幕府討幕の動きは再び火がつき始めました。 そして2月末、 幕府に衝撃が走りました。 後醍醐天皇が隠岐島を脱出し、伯耆国の名和長年に迎えられ船上山にて挙兵。 幕府方討伐軍を撃破し全国各地へ討幕の「綸旨(天皇の命令書)」を送り始めました。 そして3月、 九州にて菊池武時、阿蘇惟直が幕府の鎮西探題(北条英時)を攻撃。 しかし少弐貞経、大友貞宗らの裏切りで菊池武時は戦死。 しかし鎌倉幕府に対する反乱は西国各地に広がりを見せて手が付けられない状態となりました。 5月、 足利高氏らの総攻撃により京都の六波羅探題は陥落。 そしてその情報はやがて九州にも届くようになります。 すると少弐貞経、大友貞宗、島津貞久らは今度は「鎮西探題」を攻撃し、 「鎮西探題」も陥落して北条英時らは自害して果てました。 それは新田義貞が鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ3日後の事でした。 (建武の新政) この様にして天皇中心の政権が開始されましたが、性急な改革や非現実的な経済政策などの失政続きにより特に武家勢力に不満が高まります。 そんな中、建武2年(1335年)7月 「中先代の乱」が勃発。 北条時行らの鎌倉幕府残党勢力が討伐軍を撃破して鎌倉を占領。 後醍醐天皇は、足利尊氏が勢力を拡大する事を警戒して尊氏の出陣を不許可。 しかし尊氏は、不許可のまま討伐軍を率いて出陣して北条時行軍を撃破し、中先代の乱を鎮圧。 そして尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自の武家政権創始の動きを見せ始めました。 11月 後醍醐天皇は、尊氏側の動きを反逆とみなして新田義貞を総大将とする討伐軍を送りました。 当初は新田軍側が優勢でした。 12月 足利尊氏は、新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り京都へ進軍を開始。 翌、建武3年(1336年)1月 足利尊氏は京都を占領。 しかし1月末 奥州から尊氏を追いかけて上洛する形となった天皇方の北畠顕家軍が来援。 結局、破れた尊氏は九州へと逃亡。 尊氏は各地に自軍の武将・軍勢を派遣してしまった為に九州上陸時には軍勢は500名程でした。 九州での再起にかなり楽観していたのかも知れません。 実際に九州三人衆といわれる少弐頼尚、大友、島津らの軍勢も早速駆けつけて来ました。 それでも尊氏軍は総勢1000~2000名程度でした。 ところが計算違いの不足の事態が起こりました。 天皇方から尊氏の追討令を受け取っていた肥後国の勤王派の雄の菊池武敏が、阿蘇惟直・惟成兄弟、秋月種道らと反尊氏軍を結成して北上して来たのです。 菊池武敏軍には10000~20000名程に膨れ上がりました。 延元元年/建武3年3月(1336年) 「多々良浜の戦い」 尊氏軍はこのようにおそらく1/10位の圧倒的不利な状況下で奇跡的に勝利を収めました。 (日見和勢力もいたので菊池軍全軍が戦いに参加した訳ではありませんが...。) この戦いの結果により九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、体勢を整え直した尊氏は一色範氏らを九州の抑えとして残して再び上洛し、楠木正成を破るなどしてやがて室町幕府を樹立する事になります。 しかしこの戦いの後も菊池氏などは頑強に抵抗を続けていました。 そしてまた、 尊氏は九州を去る時に一色範氏親子を「九州探題」として残して行きましたが、この事により、九州三人衆といわれる少弐、大友、島津らは不満を積もらせて行く事になります。 鎌倉幕府が彼らを押さえつける為に設置した「鎮西探題」と同じ事が繰り返されたからです。 やがてこの火種は、足利政権の深刻な内紛であった「観応の擾乱」時の足利直冬の九州下向、そして流浪12年苦節を経て肥後国隈府の菊池一族に迎え入れられた懐良親王の南朝征西府軍による九州制圧という事に繋がって行く事となるのです。 正平3年/貞和4年(1348年) 肥後の菊池氏の元に懐良親王が迎え入れられました。 隈府城には錦旗が翻り南朝「征西府」となりました。 一方、約10年前の北畠顕家と新田義貞の相次ぐ戦死と後醍醐天皇の崩御により壊滅状態とになった南朝勢力の影響により、一応平穏となった室町幕府には深刻な内紛が発生するようになって行きました。 そして、正平4年/貞和5年(1349年) 室町幕府では将軍・尊氏と共に二元政治を行っていた直義と、各地で軍事的功績のあった執事の高師直らとの対立からやがて内紛に発展。 直義の養子(尊氏の実子)で直義派の足利直冬は九州へ逃亡して来ました。 ところが直冬は尊氏の意向で九州に下向したと偽り、援兵を募集。 これに「九州探題」一色範氏と対立していた少弐頼尚が飛びつきました。 更に他の多数の諸勢力の支持を取り付けた足利直冬は軍事行動を開始して、一色範氏を肥前北部へと駆逐しました。 これにより九州は ・足利直冬・少弐頼尚(直冬派) ・一色範氏 (九州探題・尊氏派) ・懐良親王・菊池武光(「南朝征西府」・宮方) という3者鼎立状態となります。 更に観応元年(1350年) ついに「観応の擾乱」の勃発。 高師直と足利直義が軍事衝突しました。 観応2年(1351年) しかし第1ラウンドは足利直義派が勝利し、高師直は一族もろとも処刑されました。 それにより足利直冬は「九州探題」に任命され、その影響力は九州一円に及びます。 この時点で室町幕府は一時は九州一円に影響力を持ったとも言えますが、それは極めて短期間でした。 翌、観応3年(1352年) 直義は鎌倉に追い込まれて降伏。 2月末 直義は急死。 この直義の死を以って観応の擾乱は終結。 するとその後、後ろ盾を失った足利直冬は「九州探題」職を罷免されました。 すると一色範氏と大友氏泰は、『宮方勢力』として懐良親王・菊池武光の「南朝征西府」軍と連合して足利直冬・少弐頼尚軍を破り、足利直冬は長門国(山口県)へと逃走してしまい、一色範氏は勢力を盛り返しました。 しかし一色範氏は足利直冬を追放し目的を果たすと、大友氏泰と共にまた尊氏の室町幕府の武家方として行動するようになります。 正平8年/文和2年(1353年) 1月、 一色範氏の「九州探題」はついに少弐頼尚を大宰府の古浦城に追い詰めます。 落城寸前となった少弐頼尚は...。 あろうことか、なんと年来の仇敵である懐良親王・菊池武光の「南朝征西府」に救援を求めます。 そして菊池武光は 「少弐家には恨みは多々あるが、室町幕府の「九州探題」の一色範氏の討伐が先.。頼尚を討つのは後で良い」 として救援に応じました。 そして2月 筑前国の「針摺原の戦い」において、 菊池武光の「南朝征西府」は一色範氏軍に大勝しました。 少弐頼尚は感涙して 「今より後、少弐は子孫7代に渡って菊池に弓を引く事あるべからず」 と菊池武光に血書の誓紙を送りましたが…。 正平10年/文和4年(1355年) 「針摺原の戦い」以後九州を席巻している懐良親王・菊池武光の「南朝征西府」に対し抗しきれずに、ついに一色範氏は「九州探題」の経営を放棄して京都へ帰還してしました。 先の足利直冬に継いで一色範氏の退場により九州は、懐良親王・菊池武光の南朝方が優勢となり比較的平穏となりました。 しかし 正平14年/延文4年(1359年) 前年末より武家方の活動が活発化し、連携を取る形で大友氏らが挙兵。 更にこれになんと『少弐頼尚』が加わりました。 そして7月の筑後川の両軍の対陣を経て 8月 ついにこの時期九州で最大の規模の「大保原の戦い」となりました。 少弐軍約70000 対 懐良親王・菊池軍30000。 戦いは懐良親王・菊池武光自身も深手を負うなどの大激戦となりましたが、 宮方軍の大勝となりました。 2年後(1361年) 懐良親王・菊池武光の「南朝征西府」軍は念願の大宰府を攻略。 以後冒頭のように、九州は、その後約11年間に渡って正に「南朝王国」とも言うべき状態となり、それは第3代将軍足利義満時代の今川了俊の攻略まで続く事となるのです。
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