一般論です。以下のことを私が信仰している訳では、ありませんよ。
神といっても、いわゆる八百万の神々(ギリシャや日本の神など)と一神教(ユダヤ、キリスト教の神)の神は違います。
八百万の神々は、この世の創造者という面もありますが、人知を超えた力を持った存在の面が強調されます。何百年も生きた古木が神とされるのもこの為です。こうした神々は、敬うことで人間を幸福にすると考えられます。
一神教の神は、この世の創造者という面が強調されます。物理法則も神が作ったと考えるのです。この世の不幸すら神の産物であり、キリスト教の原理に従えば、人間に自由意志などなく、こうしよう、ああしようと自分で考えていると思っているが、それすら神があらがじめ決定していると考えるのです。
仏は、この世には法則があり、それを発見したひと(そうあくまで、ひと)をいわれています。この世の苦しみはその法則から生じるのだから、それを実感できれば成仏できると説く訳です。我々が仏を拝むのも、そうしたすばらしい事を実感出来た人を拝むことで、自らもその功徳を頂きたいと考えるからです。
法則という点でみると一神教の神は、自由に法則の変更が可能です。神が「重力は廃止」と命じればそうなるのです。仏には、この力はありません。法則の変更はできないので。ただ、法則を知ることで危機を回避することはできます。たとえば、飛行機という存在を知らない人は、日本からアメリカにいくのに船でいくしかありません。飛行機を知っている人にくらべると大変時間を無駄にしている訳です。仏のいう法則は、宇宙のあり方、人間の生き方の法則ですから、それを知っているかいないかは、大変な違いがあるということですね。
ぶっちゃけいうと
神・・・・・エジソン(発明者)
仏・・・・・ニュートン(発見者)
といった例えが出来るかも知れません。もっとも、エジソンは人間ですから、厳密にいうと違いますがね。
追記:
上記だと、仏が神より劣るという印象がありますので、ちょっと追加。
戦国時代に日本に来たキリスト教の宣教師は、「仏ってようするに人間だ。それを崇めるのは変だ」といった印象を持ったそうです。
もっとも、仏教の立場は、ちっと、違っています。仏教はインドのバラモン教の流れを汲みます。バラモン教における世界の創造者は「梵天」です。ただ、「梵天」は、世界は作りましたが、自分の作った世界の仕組みを理解しておりませんでした。「梵天」は、仏教の開祖「釈迦」が世界の法則を発見したと知るとその教えを広めることを勧めたと仏教の説話にあります。「法華経」の冒頭をには、「釈迦」の教えを聞く為に「バラモン教」の神々が集まっている場面があります。仏教の立場に立つと仏は神より上にいるという事になりそうです。