ベストアンサー
このベストアンサーは投票で選ばれました
大和政権の勢力圏が東へと拡大していく中で、そこからはずれる、いわゆる蝦夷(えみし)の地との境界につくられた砦。 ただし、軍事的な意味だけをもつのではなく、そこで交易とかもされていたと思われます。 渟足(ぬたり)柵は、現在の新潟市沼垂(ぬったり)に比定されていて、当時の信濃川・阿賀野川のすぐ東側。おそらく川の西側までが大和政権の範囲で、川を渡った場所は蝦夷の地だったが、そこに橋頭堡であると同時に交易の窓口としてつくられていたのではないでしょうか。 遺跡は発見されていないため、具体的なことは推測するしかありませんが、おそらく防御用の柵で囲まれた中に船着き場があって、大和政権の範囲である川の西側から往き来できるようになっていたと考えられます。交易のための広場や倉庫などもあったと考えられます。 (新潟市歴史博物館の展示がこんな感じになっていたと思います) 磐舟柵は、渟足柵の翌年につくられたもの。やはり遺跡は発見されていません。 現在の新潟県村上市に比定されており、渟足柵よりずっと東です。やはり大和政権の最前線と考えられますので、わずか一年で大和政権の勢力圏が大きく前進したのか?という印象もありますが、阿賀野川から荒川までの蝦夷は渟足柵ができるより前から交易をとおして大和側に馴染んでいて、渟足柵による交易拡大により大和政権側の体制に組み込まれたのかも知れません。 いずれにしても、さらに北に出羽柵がつくられたのも磐舟柵におくれることわずか8年くらいで、この頃に大和政権側の前線が急速に北上していたことはたしかですから。
この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう