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2009/11/4 15:36

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ニーチェのキリスト教批判の「キリスト教は弱者の宗教だ」って結局はどういう意味? いまいちわかんない

哲学、倫理8,292閲覧

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あなたに聖句をご紹介します。 ”心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。” マタイ 5.3-4 ”重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。” マタイ 19.24 非常にざっくばらんに言えば、こういった思想をニーチェは弱者の宗教だと批判したのでしょう。

ニーチェの言う「キリスト教は弱者の宗教だ」を、その言葉だけを捉え、彼の吐いた他の思想などと照らし合わせて考えると、先に述べた方のおっしゃる通りだと思われます。それを、理性的認識と言います。 しかし、ディオニュソスに魅(ひ)かれた彼は、また同時にイエスにも魅かれた彼だったのです。 私たちはそこを見抜かなければなりません。 ただ、彼はドストエフスキィなどと異なり、どこまでも孤独に留まった。 彼の吐いた思想は所詮、孤独と自我の遠吠えなのです。 そこから、「力への意志」が生まれたわけです。 ニーチェは、ドストエフスキィの「地下生活者の手記」を読んで、感動し、興奮したと言われています。 しかし、彼はそこで大切なものを見逃した。 それは、つまり切りつめて言えば、人はこの世に在って独りでは生きられないということです。 ここでいう独りとは、どこまでも心の上での独りということで、人は憐れみなくしては生きられない、そういった弱い生きものに過ぎないと言うことに他なりません。 どうしても、憐れみが、愛が必要だというのです。 ところが、ニーチェはそれを拒否し、孤独と自我に留まった。 彼の遺した作品は、確かに思想的にも文学的にも素晴らしい点が多々あります。 しかし、彼の人生は悲惨だった。 彼は他からの愛を知らず、他からの尊敬のみをよしとするタイプの人間だったからです。 確かに、愛は彼の言うように弱者のものかもしれない。 しかし、愛には人と人との関係において偉大なる力が秘められているのです。 ニーチェとドストエフスキィの違いは孤独に留まるか否かにあると言えます。 そして、その違いがその後の彼らの生き方や思想にも現れてきます。 哀しい自我の遠吠えを続けるニーチェ、他方自分を持て余しつつも、最後にはプーシキンに関する講演で絶大なる世間の評価を浴びたドストエフスキィ。 思想とは、つまりその人の個性であり、心なのです。