はい、人は不平等だと思います。知能や性格も異なれば、家庭の財力も異なります。もちろん、身体や精神の健康においても。
時間だけは平等だとよく言われますが、私はそれも違うと思います。人間は自分の一生をどう捉えるかによって、自分が持つ時間に対する姿勢や態度が定まると考えます。
例えば、80歳くらいまで生きると思っている人が20代で過ごす1日と、余命5年を宣告された人が同じく20代で過ごす1日は異なります。この1日を無為に過ごすことによる損失は決定的に異なります。
すると、前者においては1日を大切に過ごすことが説かれます。自分の命がいつまでも保証されていないことや、できることは早めに取り掛かる方が、そこからさらにできることが広がることなどを認識できれば、確かに1日を大切に生きることはできるでしょう。
しかし、そうした想像力は人々に等しく与えられているでしょうか。いいえ、そのようなことはありません。そうした自分の現状を正しく認識し、それを踏まえた行動をすることもまた、一部の人に備わる能力なのです。そうした能力の有無や程度の違いがある以上、時間はすべての人にとって平等ではありません。
さて、それでは、生きているだけあなたの状況は良いと言えるのでしょうか。こうした考えは不平等をもとにしたものではありますが、先ほどの時間の話と似通っています。結局、これも自分の現状を正しく認識し、それを踏まえて行動をすることができる能力を前提に、初めて励ましとして機能するのです。そうでない者にとっては、むしろマイナスなはたらきになるかもしれません。
自分はこれだけ苦しんでいるのに、もっとどうしようもない状況に置かれている人と対比され、まだマシだと諭されます。しかし、それが何だと言うのでしょうか。だから言って、自分の苦しみはなかったことにはなりません。私は今これだけ苦しんでいる、それがすべてです。他者の状況を想像する余裕なんてありません。
私は私の苦しみしかわからない、他者の苦しみをもって自分の苦しみを評価することなんてできない、これもまた不平等のひとつです。
こうした不平等の中で、平等な生き方を選択していくことはできません。不平等の中で生きることが、人間の、生物の生なのです。
しかし、自然の理不尽に反し、より公平で誰もが幸福を得られるような社会の実現を図ってきた人間であるのだから、平等な社会を夢見るのも良いでしょう。ですが、そうした理想を実現するため、不平等な生き方を求められているのが今の人類です。
何をするにしても不平等な世の中を生きていきましょう。あなたが得るものすべては他者と異なる不平等であり、あなただけの特別なものなのです。