「海舶互市新例」(正徳5年〈1715年〉制定)で定められた清(中国)商船・オランダ船の入港制限については、しばしば
• 清(中国)商船:年間 30隻、持ち込み銀(貿易額)3000貫
• オランダ船:年間 2隻、持ち込み銀(貿易額)3000貫
という数字が挙げられます。数字だけ見ると「清船は 30隻なのにオランダ船は 2隻しか認められないのに貿易総額は同じ3000貫。それならオランダ船は1隻あたりものすごく積んでいたのか?」と疑問が湧きますよね。
結論からいうと、
1. オランダ船は当時としては大型船であったうえ、単価の高い商品をまとめて持ち込むことが多かった
2. 清船は小型〜中型のジャンク船が多く、総トン数あたりの積載量が少なかった
3. 幕府がそれぞれの国に期待・警戒していた面が異なり、制限のかけ方が同じ「3000貫」でも性格が違った
といった事情から、「2隻=30隻」ほど不合理でもなかったと理解されています。以下、もう少し背景を補足します。
1. オランダ船の大型化と高額商品の集中輸入
大型の船舶とVOC(オランダ東インド会社)の運用
オランダ船は東インド会社(VOC)が運用する、大型の「東インド帆船(East Indiaman)」と呼ばれる船でした。
• 一隻あたりのトン数が大きく、積載量も多い
• もともと遠洋航海を前提に造られた堅牢な帆船
そのため、小型〜中型のジャンク船で来航する清船に比べれば、1隻で運べる量自体が多めでした。
高価格帯の商品輸入
さらに当時のオランダ貿易では、ヨーロッパ産または東南アジア経由で入手した
• 生糸や絹製品など高価な繊維類
• 香料・薬種
• ガラス製品や時計などの美術工芸品
• 金属製の器具や武器類(ただし武器類は厳しく統制された)
など、単価の高い商品を少量でも大きな取引額になる形でまとめて持ち込むケースが多かったといわれます。
一方の清船の貿易品目には生糸・絹・陶磁器なども含まれますが、日用品的な雑貨や薬材など、多岐にわたる比較的単価の低いものも少なくありませんでした。
そうすると「高額品を積んだ大型船2隻でも、十分に3000貫の総額を超えうる(むしろ規制がなければさらに多く持ち込みたい)」という構図になります。
2. 清船の形態と30隻という「量」での勝負
清からの来航船は「唐船」「清船」「唐船風説書」に代表されるように、ジャンク船(木造帆船)がメインでした。
• 1隻あたりの積載量には限りがある
• 来航船の大きさもまちまち
そのため、複数隻を送り出すことで総量をかせぐというスタイルになりやすかったのです。また当時は、中国沿岸や東南アジアの港から集荷してくる雑多な商品も取り扱っており、必ずしも高価格帯の商品ばかりではありませんでした。
3. 幕府の思惑と制限の性格
ヨーロッパ勢力への警戒
幕府としては、キリスト教布教や海外勢力の政治的影響を警戒しており、ヨーロッパ諸国の来航には極めて神経質でした。
• もともと16〜17世紀前半には「南蛮貿易」が盛んでしたが、キリスト教を巡る問題でポルトガルなどを追放
• 唯一残したオランダ商館に対しても、長崎・出島に閉じ込める形で厳しい監視を継続
「2隻まで」という隻数制限は、その警戒の現れともいえますし、オランダ側もそれを呑んででもなお日本との貿易を維持したいという事情がありました。
清商船はむしろ「情報源」として重宝
一方、清(中国)の商人たちは東アジア〜東南アジアの商圏ネットワークを持ち、日本に様々な物産だけでなく海外情報ももたらしました。幕府にとっても海外情勢を知る上で中国商人は重要な情報源だったのです。
そのため、30隻という形で一定数の来航を容認していましたが、貿易量(≒銀の持ち込み額)には天井を設けたわけです。
まとめ
• オランダ船は「2隻」しか許されなかったものの、当時の基準では大型船+高額品の集中輸入で「3000貫の制限には十分対応できた」
• 清船は相対的に小型船が多く、「30隻」という数で合計3000貫をカバーする必要があった
• 幕府の対欧州警戒(隻数制限)と、中国商人への一定の門戸開放(30隻)という政治的背景があった
そのため「オランダは2隻で来るときにめっちゃ詰め込んでいた」というのは、ある意味ではその通りなのですが、同時に「清のジャンク船が30隻」というのも「数を出すことでようやく貿易額を稼ぐ形態」だった、というのが実際に近いようです。数字だけ見るとアンバランスに見えますが、船の大きさ・積む商品・政治的な背景を総合すると、当時の幕府や当事者の感覚としては「そこそこ辻褄は合っていた」わけですね。