トルストイは、明治以降の日本文学に、最も大きな影響を与えた外国人作家と言えます。
実際にトルストイに会い行った人も居ますし、反戦主義者だったトルストイの文章は、当時の新聞でも紹介されて、文学者以外にも広く影響を与えました。
1914(大正3)年には、トルストイの「復活」が、芸術座に拠り舞台化されて大ヒット、主演の松井須磨子が歌った劇中歌「カチューシャの唄」も大流行しました(♪ カチューシャ可愛や、別れの辛さ♪)。
芸術座は1916年には「アンナ・カレーニナ」も上演して折、セリョージャ役を演じて居たのが、11歳だった水谷八重子です。
当年には新潮社から「トルストイ研究」と言う雑誌も創刊され、トルストイ・ブームが起こっていました。
「アンナ・カレーニナ」の翻訳も続々と刊行されました。
1919~20年に早くも翻訳刊行された「トルストイ全集」には中村白葉訳が収録されましたし、同じ頃には原久一郎訳も登場して、戦後迄長く読み継がれます。
今図書館に行きますと、文学全集の類には必ずと言って良い程入ってますから、本当に日本人に愛された作品なんだな感心します。
と言う訳で、沢山在る中から、おすすめを(絶版除く)。
「アンナ・カレーニナ〈上〉」トルストイ/北御門二郎訳
是は単行本(全2巻)で、今でも書店で買えます。
翻訳の北御門二郎(1913~2004)は、旧制高等学校時代からトルストイに傾倒して、彼の作品を耽読する為に満州に渡ってロシア語を学んだと言う人。
トルストイの平和思想に共鳴して、徴兵拒否をした昔で言う「アカ」です。
戦中・戦後と郷里の熊本で農業を営み乍ら文学活動を展開、念願で在ったトルストイ作品の翻訳を進め、還暦過ぎてから彼の代表的な作品を続々と翻訳出版、「アンナ・カレーニナ」も1979年に出版されました。
今手に入るのは2000年の再刊本です。
「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「復活」其々単行本で読めます。
冒頭で「およそ幸福な家庭はみな似たりよったりのものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。」
色んな訳仕方が在ると思いますが、文庫版の記事でも読み比べた、舞踏会でアンナがヴロンスキーと踊っているのを、密かに彼に思いを傾けて居たキティが見てショックを受ける場面。北御門訳ではこんな具合です。
「ああ、私もうどうでもいいのよ!」とキティは答えた。
(略)
アンナがほほ笑むと──それが彼に伝わる。彼女が思いに沈むと──彼の表情も深刻になる。何か超自然的な力がキティの眼をアンナの顔に惹きつけた。彼女のそのあっさりした黒い衣裳も素敵だし、腕環をはめたふっくらしたその腕も見事だし、真珠の首飾りをつけたしっかりした頸許も、波打つ乱れ髪も、小さな手足の優雅で軽快な動きも、その生気を帯びた美しい顔も素敵だった。しかし彼女の美には、何かぞっとさせる冷酷なものがあった。
(北御門二郎訳/94ページ)
生涯を掛けて作家に惚れ込む、と言うのは素晴らしい事です。
北御門二郎訳のトルストイは他にも出て折、文庫本では、ちくま文庫「文読む月日」全3巻、現役で買えます。
さてお次は木村彰一です。
「アンナ・カレーニナ」トルストイ/木村彰一訳
「アンナ・カレーニナ論」トーマス・マン/大山定一訳
何処の図書館にも、此の全集は必ず置いて在ります。
1971(昭和46)年から刊行された、89巻(91冊)に及ぶ文学全集ですが、1990年代以前迄は、物凄い規模の世界文学全集が何種類も出ていた出版全盛期でした。
此の大系の第1回配本が「アンナ・カレーニナ」でした。
矢張り最初は何処でも是なのです。
此の「アンナ・カレーニナ」は、ロシア文学・ポーランド文学の翻訳で知られた木村彰一(1915~86)の翻訳です。
今でも彼のロシア語辞典や文法書が現役ですし、岩波文庫の「イーゴリ遠征物語」やシェンキェーヴィチ「クオ・ワディス」は木村訳で手に入る筈です。
彼による訳は既に、同じ筑摩書房の「世界文学全集」に収録されてい居ますが(1968~9年)此の出版社は物凄い数の文学全集を出して、直ぐ数年後に此方の「筑摩世界文学大系」が発刊、収録されます。
此の全集は、71年から刊行が続々と進むのですが、78年に筑摩書房が会社更生法の適用を受けた辺りから残りの巻の刊行ペースがぐっと落ちて、最後の配本第68巻「ジョイス2」第80巻「セリーヌ」が刊行されたのが1998年です。26年も掛かって読者もお疲れ様でした。
商業的には売れた全集だけ在って、有名な作品なら古本屋に安値で幾らでも転がって居ます。
木村彰一訳と言えば、バレエ・ファンなら、講談社文芸文庫版の「エヴゲーニイ・オネーギン」は持っといて損無しですが(2009年6月25日「オネーギン」参照)
お好きなら小澤政雄訳もどうぞ、(2010年4月6日「幻の(オネーギン)」参照))、筑摩世界文学大系に収録された「アンナ・カレーニナ」も、広く読まれた翻訳です。
少しでも詰め込む為か、3段組に為って居る全集なので、此の長篇も1冊に収まって終って在ります。
有名な冒頭はこんな感じです。
「幸福な家庭はどれもみな似たりよったりだが、不幸な家庭は不幸のさまがひとつひとつ違っている。」
どの訳も、一つとして同じ物が無いと言うのは当たり前の様で直訳では無く意訳ですから凄いです。
舞踏会のシーン読み比べです。
「ああ。わたし、どうだっていいんですの!」キティは答えた。(略)アンナが微笑すると、その微笑は彼にも伝わった。アンナが物思いに沈むと、彼もまじめになった。自然を超えたある力が、キティの目をアンナの顔へひきつけてやまなかった。清楚な黒のドレスに身をつつんだアンナはすばらしかった。腕輪をはめたふっくらした両腕もすばらしかった。真珠のネックレスをした意志的な首もすばらしかった。ほつれた髪の波打つさまもすばらしかった。小さな手や足の優美な軽やかな動きもすばらしかった。独特の生気にあふれる美しい顔もすばらしかった。とはいえ、そのすばらしさの中には、恐ろしい、残酷な何ものかがひそんでいた。(木村彰一訳/62ページ)
素晴らしいです。
次は原卓也です。
新装 世界の文学セレクション36「19 トルストイ1」」原卓也訳
「世界の文学セレクション36」と言う全集の、第19・20巻がトルストイの「アンナ・カレーニナ」です。
是は、同じ中央公論社から刊行された「世界の文学」と言う全集(全54巻)から36巻を選んで新装再刊した物で、元々は「世界の文学」第19・20巻(1964年)に収録された翻訳です。
1973年に中公文庫からも刊行されて居ますが、現在はは此のセレクション版が一番入手し易いでし古本でも可成り安く流通して居ます。
翻訳は、ロシア文学者の原卓也(1930~2004)です。
ロシア文学者として実にたくさんの翻訳・研究書を残された人で、新潮文庫版のドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」「賭博者」始め、其れこそ山の様な翻訳本が在ります。
トルストイでは、新潮文庫で今でも「クロイツェル・ソナタ/悪魔」「人生論』が原卓也訳で売って居ますし、「幼年時代」「少年時代」「青年時代」の三部作も原卓也訳でした。
彼の父・原久一郎(1890~1971)も日本のロシア文学翻訳に先駆的な功績を沢山残した人でした。
早くも1921年には「アンナ・カレーニナ」の翻訳を刊行、是は昔の新潮文庫版で広く読まれました(現在は木村浩訳)し、トルストイやドストエフスキーを始め、戦前戦後のロシア文学の文庫本では原久一郎訳は沢山在ります。
今でも、新潮文庫のトルストイ「光あるうち光の中を歩め」(名作)は原久一郎訳です。
有名な冒頭の訳はこんな感じです。
「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は不幸のさまもそれぞれ違うものだ。」
冒頭の一文、各訳者其々苦労されて居ます、で、舞踏会の場面です。
「ああ、もうどうだっていいんです!」キティは答えた。(略)アンナがほほえむと、その微笑が彼にも伝わった。彼女が考えこむと、彼も深刻な顔になった。何か超自然の力がキティの目をアンナの顔にひきよせた。あっさりした黒のドレスを着たアンナは、実にすばらしかった。腕輪をはめたふくよかな腕は美しかった。カールした髪のほつれた様子も美しかった。小作りな手足の軽いしとやかな動きも美しかった。生気をおびた美しい顔も実にすばらしかった。しかし、彼女のその美しさの中には、何か不気味な冷酷なものがあった。
(原卓也訳/101ページ)
此の新装版の全集には附録の月報が付いて折、第19巻には、映画評論家の淀川長治の「グレタ・ガルボとヴィヴィアン・リーの「アンナ」」と言う彼らしい文章が載って居て面白いです。
何度も映画化された「アンナ・カレーニナ」の内、2作をくさして居るのですが、彼曰く文豪の名作は文で心に染み込ませ、目は自由に読者が一人勝手に自分で空想して見る故、どうしても文を超える事が出来無い。
谷崎文学の「春琴抄」にしても、映画は土台為って居ない。
「アンナ・カレーニナ」は、言う為らば全くのメロドラマと言え無くは無いストーリーだから、数回に亘り映画化され、「復活」も日本の「金色夜叉」と競って古くから映画に為ったが、原作に及ぶ訳が無い、と。