「神功皇后」は「記紀(古事記と日本書紀)」編者達が作り出した、想像上の架空の実在しない「皇后」という事でよろしいでしょうか? .
「神功皇后」は「記紀(古事記と日本書紀)」編者達が作り出した、想像上の架空の実在しない「皇后」という事でよろしいでしょうか? . 「現在の天皇家」の「系譜(血縁がある)」は「継体朝(継体天皇)」辺りから始まった、つまり「約1500年程度」の歴史しかないと考えられています。つまり「継体天皇」以前については、神武天皇はもちろん、神功皇后も実在しない「仮想の人物」と考えられています。 ↓卑弥呼と神功皇后(法政大学) https://hosei-ch.xsrv.jp/wp3/?p=867 ↓↑ここより記述そのまま ---------------------------------------- そもそも畿内説の出発点は、『日本書紀』が神功皇后紀の注にわざわざ『倭人伝』を引用したことにありました。大和朝廷が朝鮮諸国を服属させたという物語の主人公となっているのが神功皇后なのですが、それと卑弥呼とが同一人物であることをにおわせるのは、虚構性の強い神功皇后に実在性をもたせるための手段だったとおもわれます。しかし、それは同時に、大和朝廷が中国皇帝に臣属していたと公言することをも意味しました。 九州説をとれば、大和朝廷の統一以前に別の国家が存在したことを明確にすることになり、一方で畿内説をとれば、早くから大和朝廷の統一を主張できるものの、大和朝廷が中国王朝への臣属から出発していた事実を暴きだすことになってしまいます。今日においても、神話の世界から日本史の叙述をはじめたり、大和朝廷の一貫性と自律性を強調しようとするむきには、依然として卑弥呼の存在が目障りなものであり、『倭人伝』の価値をなるべく低くみたいという事情に変わりはないもののようにおもわれます。 ---------------------------------------- ↓卑弥呼は一体どんな人だったのか、日本の歴史の研究を大混乱させた幻の神功皇后 http://www.jojikanehira.com/archives/15790811.html ↑日本書紀はこうやって歴史を歪めています。卑弥呼がやったことを、卑弥呼がやったと書かずに、神功皇后がやったかのように書く、台与がやったことを、台与がやったと書かずに、神功皇后がやったかのように書く、もうこの時点で明らかな歴史の改竄ですが、上の表は、日本書紀はもっと大がかりな歴史の改竄を行っているのではないかと疑わせるものです。 ↑日本書紀が上の表のような怪しい作りになっていることは、かなり前から井上光貞氏などが指摘してきました(井上1960)。そのことを鮮明な形で改めて示したのが、倉西裕子氏だったわけです(倉西2003)。 ↓皇位が世襲制になったのはいつから? https://gendai.media/articles/-/87179 ↑継体天皇は実名を男大迹王といい、近江国(現在の滋賀県)を拠点とする彦主人王と越前国を拠点とする振媛の間に生まれた。継体は応神天皇5世の子孫と称し、母の振媛も垂仁天皇の子孫とされるか゛、それらの系譜の信頼性は乏しく、近江から北陸を勢力範囲とする事実上の地域勢力て゛あったと考えられる。 ↓イチから分かる天皇の歴史 古代~現代まで【日本経済新聞】 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44138660U9A420C1000000/ ↑26 継体(けいたい)507~531---現在に続く天皇の実質的な祖先とされる ↓【第47回】いつから天皇制が始まったのか? https://shinsho.kobunsha.com/n/n327b3251985a ↑中国の『漢書』によれば、紀元1世紀頃、「倭」と称された日本列島に百ほどの小国があった。『後漢書』によれば、2世紀頃の「倭」の国々は乱れて互いに争い、統治する者はなかった。その争乱状態を終わらせるために諸国が祭り上げた最初の「倭王」が、邪馬台国の女王・卑弥呼である。『三国志』によれば、238年、卑弥呼は当時中国で最も強大な魏に使者を送り「親魏倭王」の称号と金印を得た。しかし、卑弥呼の死後、再び「倭」は混乱した。 ↑『宋書』には、5世紀に5人の倭王(讃、珍、済、興、武)の使者を迎えたと記載がある。これらの5カ国を平定し、6世紀、専制的な「倭国」を建国したのが継体天皇である。この国は欽明天皇に引き継がれ、世襲制が成立した。
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