「神功皇后」は「記紀(古事記と日本書紀)」編者達が作り出した、想像上の架空の実在しない「皇后」という事でよろしいでしょうか? .

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お礼日時:1/9 11:03

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・『風土記』などの地方の伝承や、歴代天皇の系譜情報、対外交渉の起源伝承、八幡信仰や住吉社の鎮座伝承といった要素が複合しているが、これらの伝承がすべて後代に創作されたものであり、歴史的事実ではないと否定し切ることはできないというのが、歴史学者の有力な見解である。 ・稲荷山刀銘が皇統譜のタケル、タラシ等の名辞を解明していて、雄略天皇、成務天皇、神功皇后の実在が実証されている。 ・四世紀中頃、卑弥呼の後継女王の田油津媛が新羅と修交していたため、神功皇后がこれを誅して邪馬台国を滅ぼしているが、田油津媛の兄の夏羽が逃げたところは肥後国菊池郡に山門郷が見え、邪馬台国のあった筑後国山門郡の古墳時代中期末葉から後期前葉までの集落遺跡が欠如していることは、この史実を示している。 ・長野県からは馬具が圧倒的に多く発掘されていて、三韓征伐に出陣した将軍の一人の墓が、善光寺平の森将軍塚であり、この方面の物部氏が半島出兵に多く関与していることから、諏訪に将軍塚の名が多くある。 ・神功皇后が朝鮮半島に兵を進めた時に、内宮の天照大神と伊雑宮の稚日女尊を祀っており、大紀町錦にいた船を造る技術、操船技術を持った人々がさかんにそれを手助けし、大和朝廷もそのことを非常に重視したため、戦いから帰ってきた時に功績を認められてもたらされた三角縁神獣鏡が大紀町錦の土地から出ている。 ・高良大社の祭神の高良玉垂命は、新羅征伐に従軍した実在の人物であり、参加して大いなる勲功を示したと特筆されているが、これを否定し得る根拠はなく、その系統が中臣氏とも考えられており、高良大社の南側に古墳があり、その南にまた円墳があって、その円墳の上を有名な神籠石が横切っていて、これらの存在は高良玉垂命が新羅征伐当時の実在の人物であることを傍証している。 ・神功皇后の軍陣の中にいた豊姫(淀姫)は、当時の実在の人物であり、対馬の仁位に根拠をもつ海族安曇氏の娘と考えられ、神功皇后と豊姫とが一緒に九州に凱旋している。 ・仲哀天皇が熊襲の矢にあたって崩御するという空前絶後の出来事があり(西暦362年)、神功皇后は神託を重んじて、問題は熊襲よりもむしろ新羅にあるとして朝鮮出兵することになるが、大和朝廷が初めて本格的に大挙出兵して新羅を平定したという神功皇后49年の記事は、七支刀の銘文や好太王の碑文との一致から、これまでの通説通り西暦369年の史実であると認められる。 【まとめると】 これらの史実が創作であると論証した人は一人もいないようです。 四世紀中頃に実在したと考えてよろしいです。

記紀は8世紀に創られ、記紀が創られた8世紀が大和朝廷の成立した時期だと考えます。