キリスト教徒になれば、手っ取り早く全能感が手に入りますか?

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2024/12/11 17:02

その他の回答(4件)

キリスト教の神を全知全能と思うとその場で上には上がいると 言う意識がなくなってしまう。 その結果はヤホベより上位の神がいると考えられる経典の記事を 読んでも全くオツムに入らなくなるし、どう読んでも全能とは 考えられない記事を無視してしまう。 つまり偽物の全能感だよ。それでよければキリスト教徒に成れば 手っ取りばやく手に入るが、そのとたんに思考停止に至る。 僕の質問に回答してるバッタ物キリスト教徒の人達を見たら 分かるだろ。

キリスト教徒は、この世的には愚か者の集団なので、全能感が入手できるどころか、自分は低能ないしは無能だと謙虚に受け容れられるようになってこそラクになるので、それがキリストのケノーシスに学んでの成果ですが、それって実際に低能や無能な人たちだけってことではなく、この世的には有能な人ほど、キリスト教徒になれば、自分の無能さを自覚できるようにならないとダメなのです。自分は有能だという傲り、他人から低能だ、無能だ、とバカにされたくないという無用な自尊心が、自分を守るために機能せず、自分を傷つけ苦しめる方へ機能してしまうから、だからキリスト教徒になって聖霊のはたらきを豊かに受けることによって、自分の低能・無能を受け入れラクになることができるのです。 【十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。】(コリント人への第一の手紙1:18~29) 但し、愚かであるというのはあくまで逆説であって、本当は神の賢さによって支えられてある者なので、聖書の言葉であれ教会の教義とかであれ、無批判にただ信じ込むような、正真正銘の低能…無能者になるって意味ではありません。それは「知性の犠牲」と言って、けっしてキリスト教徒の美徳となるようなことではないし、してはならないのです。ただし全能感を得ることを目的とするなら、それは宗教ではなく薬物の方にはしることになるので危険です。宗教で全能感を得ようとすれば、カルトのようなやばいものにひっかかる危険が生じます。けっきょく、神経伝達物質とか脳内ホルモンとかいわれるものの話になりますからね。

ビリオネア(10億USドル保有者)になれば、手っ取り早く全能感が手に入ります、

むしろ自分の無力を思い知ることになり、神の全能を歓び誉めたたえることになります。