回答(7件)

簡単に言えば、卑弥呼という文字で、尚且つ名前の人物はいなかった。だから記紀には書かれていません。ヒミコというのは尊称であり、そのような名前はないのです。ではヒミコとは何か?他の回答にもありますが、邪馬台国の祭祀王であるヒメミコか、太陽神の尊称であるヒノミコか。 ちなみに邪馬台国(ヤマトコク)は記紀に出てきます。 大倭とか倭とかで書かれています。 飛鳥時代には推古天皇という女帝がいました。しかし蘇我馬子や厩戸皇子という政治を担当する人物はいます。 ヤマトコクも同様で、祭祀を司るヒノミコと政治を担当する人物(弟か)が存在しました。政治はヤマト連合に参加する各国の代表が合議制で運営しました。 記紀を編纂したのは8世紀ですから、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼のことが分からなかったのでしょう。女王というだけあって、女傑だと思ったのですね、神功皇后のことかな?と神功皇后紀に倭人伝の記事を乗せたのです。おそらくは半信半疑でしたから、あくまでも注釈としてです。

この回答はいかがでしたか? リアクションしてみよう

日本書紀 神功皇后即位39年 「この年、太歲己未でした。魏志によると、明帝の景初三年六月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(帯方郡)に行き、天子に会おうと朝献しました。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でました。 即位40年。 魏志によると、正始元年に、建忠校尉梯携たちを派遣して詔書印綬を奉り、倭国にもたらせました。 即位43年。 魏志によると、正始4年、倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上しました。」 上記のように日本書紀には明らかに魏志倭人伝からの引用がありますが、そこには肝心の「邪馬台国、卑弥呼」のワードは書かれていません。明らかにおかしいです。 神功皇后の事績を紹介するところなのにわざわざ「倭の女王が」と書いてるあたり、違うんだけど勘違いしてほしいのかなんなのかよくわからないニュアンスを感じます。知ってるけど知られたくない何かがあるんでしょう。

古事記や日本書紀に出て来るのでしょうか? はい、出て来ます。 正し卑弥呼は役職名ですから2名になります。卑弥呼は、姫巫女または、日巫女で本名は別に有ります。その当時倭国大乱を納めた巫女(祭祀王)は、一人だけです。ヤマトトモモソヒノミコトです。彼女は孝霊天皇の皇女で四国阿波のイホドノ宮で産まれ、吉備との戦いの時には髙松にいました。祭祀王に任命された後、畿内の三輪山付近で太田氏と共に祭祀を行っています。年は長大にして夫がいない巫女ですが、大物主の子孫の太田氏と祭祀の力で倭国大乱を静めた方です。 もう一人の卑弥呼は、豊玉姫として、名前が残っています。古事記や日本書紀では、山幸彦の奥さんですが、ワタツミの娘です。後の世に神話化されてしまいましたが、モモソヒメと同時代一代後位の女性です。豊の国宇佐神宮の比売命でもあります。ワタツミは、呉からの渡来人で、北九州の海の貿易にたけていました。 魏志倭人伝の中では魏から金印をもらった方です。魏志倭人伝に登場する人物に、ミマキとイクメ、トヨ等がいますが、ミマキは、ミマキイリヒコ崇神天皇の事ですし、イクメは、イクメイリヒコ垂仁天皇の事です。卑弥呼の後継者として登場する台与(トヨ)は、崇神天皇の皇女でトヨスキイリヒメと贈り名が残っています。トヨスキイリヒメの母親が金印をもらった方の卑弥呼です。 福岡の志賀島を貿易港としていた、九州物部勢力は徐福が連れてきた呉や斉からの技術者で、ミマナを介して大陸と貿易をしていました。拠点は吉野ヶ里で、有明海の山門(ヤマト)が当初たどり着いた場所で最初の邪馬台国(ヤマトコク)です。 イクメイリヒコの時代に西都原の豪族と政略結婚し、更に豊王国の巫女と政略結婚し、宇佐一族も取り込みました。畿内に進出の為に魏を後ろ楯にして東征を行っています。こちらの卑弥呼は、広島で病死しています。 イクメイリヒコの時代に東征に成功して、祭祀王についたのが、トヨスキイリヒメです。豊の国をから入って来た姫だからトヨスキイリヒメです。ここからが、畿内が邪馬台国です。 魏志倭人伝は、編纂時に問題があり二人の卑弥呼を一人の人物に混同しています。 古事記や日本書紀は、それから400年位後の違う政権が作ったお話しなので、かなり神話化されて時代や登場人物がメチャクチャですが、名前はちゃんと残っています。 古事記や日本書紀に卑弥呼の名前が出ていないのは、本名ではなくて、役職名ですから出て来ないだけで、ちゃんと本名や贈り名が残っています。 古事記や日本書紀は、系図や天皇の年を誤魔化しています。 海外向けに作られたとされる日本書紀では、魏志倭人伝の存在で天皇の年を誤魔化しているのがばれてしまうので、困ったあげくに卑弥呼は、神功皇后かなーとやり過ごして、豊玉姫やモモソヒメの存在を神話化してぼかしているようです。 物部勢力は、蘇我氏に敗北した時から政権から後退していますので、その辺もぼやかされている理由の一つになるかも知れません。 さらに蘇我氏も倒された後に出来たのが古事記、日本書紀ですから。

>卑弥呼は古事記や日本書紀に出て来るのでしょうか? 出ていないならその理由は何でしょうか? 古事記は、元明期に命を受け、太安万侶(贈従三位)が編纂しました。 日本書紀は、天武持統期に、舎人親王(皇族)を筆頭に編纂されました。 この事から明らかな様に、邪馬壱国や卑弥呼は、 現代の皇統血脈及び大和朝廷の祖である継体天皇以降の大和朝廷と、 異するものであったとの認識であったという事ですね。 異するものである以上、系譜系統に載せる訳にはいかなかったという事です。 誰が見ても明らかなる虚偽をさすがに記述する訳にはいかなかった、 という事ですね。 現代風で言えば、 フェイクやヤラセなどと大バッシングを受けた事であろう事ですね。 かつて、北部九州に邪馬壱国と言う国が存在し、女王卑弥呼は、 魏より親魏倭王という称号及び倭国王として認知されていた・・・ と、記紀編纂者も素直に書けばよかったものですが、 やはり、他の全く別の王権を賛美する様な事は、 「わかっていても書けなかった」という事でしょう。 当然、現代において、 継体天皇以降の大和朝廷と、北部九州地域の邪馬壱国や卑弥呼など、 及び、大阪周辺域出自の近畿ヤマト王権(倭の五王時代)とは、 それぞれ、全く別の王権であった事は常識であるという事ですね。