私は昔は里見派でしたが、今は財前派です。
これは見る人の立場によるんだと思うんですよ。
患者の立場からすれば里見先生のほうがいいと思います。
患者を第一に見ますからね。
でも同じ医療従事者(医者、看護師)からすれば
財前先生のほうがいいと思うはずなんです。
なぜなら、財前先生は患者にスピーディーな処置をして、
部下の医者や看護師にも目を配っているからなんです。
私は小説も映画版の田宮二郎verとドラマの田宮次郎verとドラマの唐沢verを見ました。そこで小説では、里見先生のダメなところがさりげなく書かれていて、患者の一人一人にかける時間が長くて、看護師がその後処理(あとしょり)で苦労しているシーンがあったりするんです。
これは患者からすれば丁寧に見てくれる先生だと思われて評判はいいかもしれませんが、看護師からすれば、いろんな仕事があるのに、里見先生に付き合っていたら、いつまでたっても仕事が終わらんと思われてもおかしくありません。
また、小説でもドラマでも、映画でも共通だったと思いますが、里見の上司の鵜飼先生は里見に、記憶はあいまいですが、
「君(=里見)は優秀だが患者一人一人に時間をかけすぎだ、もっとスピーディーに、検査だけでなくある程度は勘を働かせて処理しろ」
などと注意したりしたシーンもあったと思います。
これも患者からすれば、とんでもない発言かもしれませんが、実際の医療の話を聞いていると鵜飼先生の言っていることもあながち否定できないんです。限られた時間の中で、成果を出すには里見先生のやり方だと、遅すぎますし、下手に付き合っていたら、逆に過労で倒れるかもしれません。
唐沢verのドラマですと、里見先生の部下の人に、里見が要するに
「俺はもうこの大学には入れなくなった。そこで君に俺の研究を引き継いでほしい」
というようなことをいったら、部下はそれを拒絶するんです。
「できませんよ! あなただからこそできたんだ。僕にはできない」
と言ったんです。その部下は、里見の能力は認めつつも、世渡りの下手さに、複雑な思いを抱いていたんですが、それが爆発したんです。
患者からは好かれるが、同僚からは疎まれるというシーンをうまく凝縮したシーンだったと思います。里見はある意味超人であり、それに付き合わされる人からすれば、たまったものじゃないんですね。
一方で財前は、患者に割く時間をうまくコントロールして、時間をかける患者とかけなくてもいい患者を分けて、その分の時間を部下や看護師に割いているんですよね。
これも、患者からすればたまったものじゃないかもしれませんが、冷静に考えてみてください。全部の患者さんに平等に時間を割くべきでしょうか。まずそもそもとして、財前も里見も大学病院の人間です。大学病院は先進的な医療を施すための場所です。だからそこに来るべき患者は高度な医療を必要とする者のはずです。でも現実に照らし合わせて考えてみると、軽い風邪で大学病院を受診するのが後を絶たない現状が昔はあったんです。今もあるかもしれません。だから初診料でいきなり大学病院にかかると、普通の病院より割り増し料金を取るシステムに変わったんです。
話はそれましたが、風邪の患者さんと、原因不明だが体調がずーっと悪い患者さんの両方がいたら、後者の原因不明の患者さんに時間をより割くのが大学病院のあるべき姿のはずです。田宮ver時代でも唐沢ver時代でも、大学病院に入院している患者さんを全員平等にみる必要があったかというとそうではないはずです。言い方が悪いかもしれませんが、患者さんのモラルも悪かったんです。さきほどいった風邪も、引いてしまったら、どうせなら最高の医療を受けられる大学病院にかかろうと考えること自体が本来ならおかしいのです。自分の家の近くのクリニックで本来なら十分なはずなのに、あえて大学病院にいく患者が多かったのは、ある意味残念でなりません。
話はかなりそれましたが、要するに、財前は器用だったんです。時間を割くべき患者さんとそこまで割かなくても大丈夫な患者さんを見分けられたんですから。
最終的には医療ミスを犯してしまった、という財前ですが、それは作中の表現を使うわけではないですが、「結果論」なんです。「こんな奴がいたら、いやだね、報いを受けるよね」というふうに読者、視聴者を誘導しておいて、実際にその因果応報として、医療ミスとして民事裁判で負ける。それは物語だからこそ、ある種エンターテインメントとして、財前はそういう扱いをされるべくして、されてしまったんです。実際のところいうと、財前みたいな先生は現実にいます。そして、普通に勤務しています。それは我々一般人が警察のお世話になることは物語ではよくある一方で、現実ではなかなかないことと同じだと思います。
そもそも財前の医療ミスにしても、裁判の判決文にもあった思いますが、「原告の佐々木側の死亡のケースは万に一つあるかどうかのレアケースだった」といっているぐらいです。だから通常なら財前側は責任を取られることはなかったはずなんです。昔は、私も佐々木側の肩を持っていましたが、今なら、これで責任を取れというのは医療側にとって酷(こく)すぎると思っています。実際、それに近いことは判決文にも触れられているはずです。けっきょく国立大学の教授だから、厳しく責任をとらねばいけないから、という理由で財前は負けました。
私はこれ(国立大学の教授だから)が財前が負けた理由として納得できるギリギリのラインかなと思いました。
里見先生と財前先生の言葉として、
「医者は神様じゃない。患者と同じ人間だ」
という言葉の意味をこの質問からかみしめております。