今川義元は生まれてから一度も刀を振るったことのない軟弱者で、取り柄は家柄だけの無能だから桶狭間の戦いで織田信長に敗れたというのは本当ですか?

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歴史を遡ると、今川義元の恐るべき「戦略家」としての姿が見えてきます。 今川家では、家督継承争いを起こさないために、少年の義元を出家させて、京都東山区にある建仁寺塔頭の「霊源院」に入れました。 そこで、義元は中国で編纂された仏教書の『碧厳録』で学んでいました。 そして、この「霊源院」は当時の京都の文化人の集会所にもなっていました。 その後、数年して義元は今川家から駿河に呼び戻され、今度は現在は静岡県富士市にある「善得寺」に入れられたのです。 「善得寺」はいわゆるお城の機能を持っていて、駿河と緊張状態にあった甲斐を繋ぐ街道にあり、今川家は未だに還俗もしていない義元を引き続き仏教を学ぶという名目で配置しました。 ところが、天文五(1536)年三月十七日、今川家の当主であった長男の氏輝(享年24歳)が突然病死してしまいました。 その後、同じく出家していた腹違いの兄:玄広恵探(花蔵殿)と、栴岳承芳(善得寺殿)との間で今川家の家督を巡る争いが起きました。 ここで、善得寺殿は京都での文化人の繋がりを利用して、第十二代足利幕府将軍:足利義晴から「義」の一文字を拝領するばかりか、今川家家督継承を認めて貰いました。 さらに、兄:玄広恵探が立て籠もった花蔵城は攻めにくい山城でしたから、北条氏の水軍の力を利用して背後の海側から攻めて攻略しました。 これが、今川義元の本当の姿です。