本能寺の変があったら毛利は滅亡していたといわれますがどのように滅亡しますか? 吉川や小早川が輝元の兜首を手土産に織田信長や豊臣秀吉にに拝見するのでしょうか?

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織田信長自ら高松城に援軍に行きます。信長が東から毛利を攻めて 西からは島津や大友とか信長の配下の九州の大名を使って毛利を攻めるので 毛利家は壊滅する予定でした。

歴史を理解する上では、まずは悪魔崇拝者の歴史が語り継がれていることを理解しなければなりません。 そして悪魔崇拝者は、基本的に4つの種類に分けられます。 秦氏(赤勢力)、出雲族(青or白勢力)、李家(黄勢力)、藤原氏(緑勢力)です。 そして、織田信長と毛利輝元(毛利氏、吉川氏、小早川氏)はいずれも秦氏に属し、実は本能寺の変以前は、両者は手を組んでいたのです。 イエズス会(秦氏)を通じて味方同士だったのですが、織田信長が傲慢になりイエズス会を裏切った時から、織田信長と毛利一族は敵味方になりました。 本能寺の変で織田信長を殺したのは、明智光秀ではなくイエズス会であり秦氏勢力です。 従いまして、毛利氏が殺した、という言い方も出来なくはありません。 しかも、羽柴秀吉も毛利側についてイエズス会と通じて織田信長を裏切っていたので、もし本能寺の変が失敗していたとしたら、大規模な戦争が起きていたかもしれません。 この時代、イエズス会が中心となって日本国内を荒らしまわったことは確実で、その事実が隠されているのです。

変の前から和睦交渉は始まっていたので、変がなくても滅亡はないです。

もし、本能寺の変が無くても、毛利氏は滅亡されはしませんがその領国は二ヵ国程度にされていたかもしれません。 本能寺の変が無かったら、織田信長が毛利氏攻めに自ら出陣して、九州では大友氏と島津氏が停戦することになっていました。 さらに、「三職推任」で朝廷が信長に提示したのは、「将軍」すなわち「征夷大将軍」ですから、信長がそれを受諾して、その後に出陣したと考えられます。 毛利方は和睦条件として、備後・出雲・伯耆・美作・備中という「五ヶ国割譲」を提示していました。 さらに、これに石見・長門・周防を加え、毛利・吉川・小早川を安芸と備後の二国に封じます。 その上、瀬戸内海の制海権を全て奪い、三家を完全に封じ込みます。

『大友文書』六所収の天正七年十一月二十七日付大友義統宛織田信長書状には、毛利領国の「周防・長門」の支配権を安堵されています。 さらに、同日付で松井友閑の仲介によって、朝廷の名簿である『歴名土代』に大友義統の「従五位下」の叙位と、「左近衛督」に任官が記録されています。 これが、大友氏が信長に服属した根拠とされ、信長はその後、近衛前久を仲介させて、島津氏との交渉に進み、天正九(比定)年六月二十八日付伊勢貞知(近衛家家礼)宛島津義久書状写(『旧記雑録』)で、義久は「大友氏と停戦して、信長と盟約を結びたい」と書いています。

本能寺の変が無かったら?ですよね。 恐らくですが、吉川と小早川が毛利輝元の首を持っていっても、吉川、小早川含めて毛利一族は滅亡させると思います。 この時点で武田は滅び、上杉は風前の灯火、四国遠征も始まります。 関東は一応北条と同盟関係であり、東海には徳川家康が居ます。 信長は背後を気にすることなく、毛利と戦うことが出来る。信長は初めから自身を苦しめてきた武田、上杉、毛利はチャンスがあれば潰すつもりだったと思います。 上杉、毛利、長曾我部を潰した後、九州の大名には織田に従い、領地などについて織田の差配に従えば生き延びる。大友辺りは素直に従うだろうが、島津は微妙ですね。多分反抗する気がします。秀吉に逆らったように。 ただ、信長の場合、一度逆らったら存続は認めないでしょう。その辺りは秀吉より苛烈だと思います。 その後、関東の問題を処理するでしょう。 北条には相模・伊豆の領有を認めて、それに従わなければ関東遠征でしょう。