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島津義弘 家来との関係性 一昨日のNHKの放送を見たのですが…

日本史112閲覧

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この時期は江戸期の様な忠義は皆無でした。 朝鮮の戦いでは数千人の兵で明・朝鮮連合軍20万人を打ち破った泗川城の戦いを義弘が指揮し内外から鬼島津と呼ばれ恐れられました。 島津と薩摩兵以外なら敵を見ただけで敗走するところでしょう。 他の三兄弟も同じですが、指導力が優れてるので兵も死を恐れません。 元々、戦いを3度の飯より好む薩摩兵です。 島津四兄弟の様な優れた将を頭に抱けば鬼に金棒です。 他の大名ならできない芸当でしょう。

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薩摩には桂庵玄樹が伝えたい薩南学派と言う朱子学があります。 島津中興の祖である島津忠良が学んで孫の島津四兄弟に教えました。また いろは歌と言う下の者にも分かりやすい歌にして広めました。 その内容には「下の者は上の者を敬い、上の者は下の者に優しく扱う、卑怯なやり方は上も下も絶対許さない」のがあります。 その内容が郷中教育と言う江戸時代まで続く地域教育制度で明治維新でも生かされます。 島津義弘はそれを徹底して端兵であっても声をかけ、一緒に食事をとるとか軍曹的な面を持っていました。 ですから軍兵士全体から慕われる存在でした。

島津家は、大大名ですから、本来なら2万人くらいの動員力があるのに、 朝鮮出兵の直後で、国力が疲弊していたから、 島津義弘は千数百の軍勢しか引率できなかったのです。 つまり、二万の将兵の中から選りすぐった千数百名なので、 格別に士気が高く、忠誠度の高い軍勢だったと考えられます。 だからいわゆる、「一騎当千」という言葉が相応しい部隊で、 だからこそ、死中に活を求めるような、敵中突破作戦も、 成功したと言えるのだと思います。