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大学の修士課程は研究しにいくところとよく偉そうにいう方はいますが、勉強もでいますよね?もちろん、その勉強を使って研究したいのですが、なぜかその話をすると研究するために行くんだと平行線です。

大学院 | 大学数学303閲覧

回答(8件)

30年前に理学修士(数学)を取得した者です。 はっきり言いますが、時代が変わったのですよ。 40~50年前は、同窓者名簿(旧帝大)を見れば一目瞭然ですが、ほとんどの博士号取得者が大学教授になっておられます。しかし、その人数は少なく、大学院入学時ですら2~3名ほどでした。しかも、修士に入学した人はほとんど博士号を取得され、大学のポストが十分にあったため、みんな助手になり、教授になっていったのです。その当時の人と話をすれば、「大学院=研究をする場所」であり、その少数精鋭で育った人たちはみんな超優秀です。名誉教授になられている方も多いです。ですから、そういう世代の方と話をすれば、平行線になるのは当然の帰結です。 現在は、昔の大学のレベル≒今の大学院レベルといった感覚です。 ですから、大学が勉強をしに行く場所といったイメージをお持ちなら、今の大学院がそれにあたります。 実は、1990年代後半から「大学院拡充計画」が進んでおり、大学院の定員数を大幅に増やしており、それによって、大学院生の質も大幅に落ちています。当たり前のことなのですよ。研究は「0から新しいこと」をやっておられた方も昔は少なくなかったのです。私の大学院の担当教授である坂内英一氏(数学者。代数学賞を受賞。代数的組合せ論の理論を0から作り上げた本人。世界の第一人者であり、世界的権威。)もその一人でした。家族4人がすべて東大卒の数学者の一家です。そういった人と話をしたら、平行線になることはまちがいないです。

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旧帝大の文学博士号を持つ、元高校教諭として、ひと言。一般的に言って、文理を問わず、大学院博士前期課程(修士課程)は、基本的なことを学ぶところであることは当然ながら、理系はとくに、指導教官とともに研究するという色彩が濃いやに聞く。だから理系の場合、研究しに行くところという言い方は、あながち間違っているとは言い難い反面、仰せのこともまた、一切間違ってはいない。ところが文系の場合は、そんな色彩は皆無に等しく、まだまだ学部の延長と考える人が多い。修士論文を書いてから、漸く研究のスタートに立つか立たないかといったところが、公平な見方と言えば言えようか。その意味では、理系とは異なり、文系では、修士課程は勉強するところと言ってよいかも知れない。いずれにしても学問は、ずっと困難がつづき、曙光がいつ見えるとも定め難く、ただ果てしない道があるばかり――それでも、若い人、ガンバッテ!!

国立大学の大学院を想定して回答します。 知識というのが何を指すかによりますが、講義に出席し、教科書の内容を理解し習得するということは重視されていません。研究という実践的な課題を通じて、物事を分析し、他者からの批判に耐える結果を提案する技能を身につけることが重視されます。これを実践的な暗黙知を身につける勉強と言えば、そのとおりです。

理系に限らず文系も勉強ですよ。勉強ができなくて研究はできません。両方とも訳すと Study です。これを初等・中等教育では勉強と呼び、高等教育では研究と呼ぶと思います。おそらくですが、教育制度の法制化などの中から生まれてきた用語の使い分けに過ぎないと思いますよ。私は人文学系の者で理系の事は全然分かりませんが、人文学系の勉強・研究をしていて、ほとんどは地味な下積みのような勉強です。読む事も言葉の意味を調べるのも、文章の意味を考えるのも地味な勉強と呼ぶにふさわしい作業です。本当に飛躍的な研究がいつもできる訳ではありません。研究と言うと新しい発見をするものを呼び、勉強と言うと小学校の勉強を頭に描くのではないかと思いますが、両方が Study だと思いますよ。

つまり研究と言う言葉も勉強と言う言葉も study です。この区分けは教育の過程の法制化の中で生まれてきた言葉の使い分けに過ぎないと思いますよ。

そもそもの勉強と研究の違いが曖昧というか過渡に分けて考えている上に、そういう人に対してコンプレックスを感じているので偉そうと認識しまっている、だけかと思います