中日ドラゴンズ、強竜復活論❶。
というBlogから部分的に抜粋しました。
中日球団の監督人事を語る上で避けて通れないのが、中日新聞社の派閥争いです。
中日新聞社の前身は「新愛知新聞社」(新愛知)と「名古屋新聞社」(名古屋)です。ともに明治19年(1886年)創刊の歴史を持ち、今でいう名古屋市中区に本社を置いてバチバチのライバル関係であったようです。論調も新愛知は保守寄り、名古屋は自由主義(※左派とは異なる)とされます。
この両社が統合前にタッグを組んだのはたったの1回。昭和10年(1935年)に大阪から朝日新聞社と大阪毎日新聞社(現:毎日新聞大阪本社)がこぞって名古屋に本格進出を果たしたタイミングで、地域貢献なき進出は許されないと共同社説を掲げ対抗、朝日・毎日両社の拡販を阻止したことがあります。双方にとってよほどの危機感がない限り、犬猿の仲であったといえます。
新愛知・名古屋両社が表面的な対立を終結させ合併に動くのは「共同社説」から7年後にあたる昭和17年(1942年)のこと。ただ、これは双方の意思によるものではなく、国策として1県1紙の原則とするという統廃合命令によるものであります。これによって生まれた「中部日本新聞社」は、旧新愛知のオーナーである大島家、旧名古屋のオーナーである小山家が持ち回りでトップを務めるダブルオーナー制を、なんと今に至るまで頑なに守り続けています。社内でも「大島派」と「小山派」に分かれていると言われていて、合併から80年以上もの間、絶妙なバランスの中でガバナンスが守られているのです。
さりとて球団が大島派のみで支配されていたわけではありません。基本的に親会社の体制に左右されつづけるため、球団内も大島派と小山派で振り子のように揺れては戻しての連続。ただ特筆されるのは、昭和48年(1973年)に中日新聞社社長に就いた加藤巳一郎氏。子会社の不祥事が原因となり大島派・小山派双方のトップが更迭されたあとの抜擢とあって、自身は大島家が創業した新愛知出身であったものの、小山派の第4代社長である小山 龍三氏に近いため小山派と目されていて、両派閥の中間的ポジションから社内融和を進めていきます。この加藤氏が球団オーナー時代に監督に抜擢したのが星野 仙一氏。星野氏は立浪 和義(現在の中日Dragons監督)や与田 剛(前・中日Dragons監督)、山本 昌など次々に若手を起用、闘争心を全面に押し出したチームカラーが作り上げられていきます。しかし第一次星野政権が終わり、第二次星野政権が作り上げられた時のオーナーは大島派の大島 宏彦氏に移っていて、あろうことか今度は小山派が星野降ろしに動きます。小山派の大番頭・白井 文吾氏は平成12年(2000年)にオーナーに就任すると、翌年には星野氏を事実上更迭、ただDragonsへのパイプを維持して再び監督就任を目論む星野氏は自身が投手コーチとして連れてきた、もと阪急ブレーブスのエースピッチャー・山田 久志氏を監督に据えることに成功します。
蛇足だが、
大島派は、堅実派・ケチで有名(CBC)
小山派は、見栄っ張りで有名(東海)
※括弧内は、放送局
他にも星野監督が死去した際は、白井 文吾オーナーの時代。だから、お別れの会は中日球団主催ではなく、後援会主催で執り行われたとか。(ちなみに阪神は大阪市梅田で坂井オーナーが発起人となり、楽天では東京都高輪で三木谷オーナーが発起人となり、お別れの会が執り行われました。)立浪監督が誕生したのも、毛嫌いしていた白井オーナーが退任して、大島 宏彦・元オーナーの息子、宇一郎オーナーが就任したからだと言われていますからね。
中日球団は、立浪監督の失敗を「由伸の二の舞い」と見做して、コーチ・二軍監督等を経験していないOB解説者を次期監督に据えることは考えていない様です。ということは、内部昇格で落ち着くのかな?井上 一樹二軍監督か和田 一浩打撃コーチが最有力候補か?打線が課題だと言われ続けてきたから、責任者のベンちゃんの内部昇格は考えづらい。ましてやOBと言っても外様やし。となるとWestern Leagueで二軍を首位に押し上げた一樹君の内部昇格に落ち着くのかな?彼は、どちら派なんだろうか?
「令和の時代に派閥争い?」と首を傾げられるでしょうが、中日はYakultの様にFamily的な球団ではない。こんな派閥争いしている様では球団一丸なんて夢物語ですし、強くはなれないですよ。
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