大学名だけで評価したりするのは間違っているように思います。しかし、出身大学が人の全てを表すわけではありませんが…青年期の個人の努力の結果の集大成ととらえると大事にしなければならないように思います。
世の中には頑張った頑張らなかったなどというあいまいな事象を判断する明確な基準もはありません。それぞれを各人が主権的に判断して評価をしているに過ぎません。しかし、勉強はある意味とても公平に「努力」を計れる公平なシステムです。勉強を通して大学受験を行う事で(絶対的ではありませんが)公平な努力評価が出来るようになったのです。義務教育システムの整った現在では以前ほど貧富の差からくる教育の格差は無く、ゆえに一般的には各人の努力次第で学力ひいては学歴はどうにでも出来るのです。学校から配布される教科書と問題集だけで難関大学すら容易に合格できるのが今の社会なのです。つまり誰にでもステージは公平に整っているのです。この公平さゆえに企業は個人の努力の結果としての学歴を重視するのはある意味当然だともいますし、努力を正当に評価する(していきたい)社会システムとしても当然と言えます。
もちろん、大学名・学歴だけで個人の全ては推し量れません。しかし学生時代の努力の結果としての学歴は個人の努力量を推し量るうえで必要十分なものだと思います。学歴を完全否定する人の真意は分かりかねますが、勉強に関する「努力」はしてきていなかった人たちなのではと思います。勉強の努力をしてきた人であればあの過酷な長い努力を否定する事などできようもありません。
もし努力としての学歴を否定してしまう世の中になってしまったらどうなるでしょうか。生まれ持った体格や才能だけで評価も一生も決まっていく…野生動物社会のような弱肉強食の世界になってしまうのではないでしょうか…。それは恐ろしい世界です。そうならないために世界中に散らばる小さな個人の努力を評価し社会全体で支えあっていく、そういう意味でも学歴社会というものは成熟した人間社会にとって欠かせぬものかもしれません。
勉強というものはそれを身に付けるまでの努力を結果的に世間から公平に評価してもらえるだけでなく、教養も身に付き、古の先人たちの知恵を得られるコストパフォーマンスに最も優れたものだと思います。そして何よりも、豊かな人生を送る道標になるのです。人類がかくも豊かに繁栄しているのは遺伝的な進化という側面よりも、勉強を通して先人たちの努力の結晶たる成果を学び続けさらにそれを発展させてきたのが一番大きな成功理由です。学ぶことをしなければそこらへんのただの動物となんら変わりが無いのですから…。
さて、子供に勉強を教えるために無学な私は勉強に励むとします…。