本能寺の変、四国説はやはり弱いのではないでしょうか。 長宗我部の家来が織田に寝返るのなら分かりますが、織田方の武将が長宗我部に寝返るのはまずあり得ないのではないでしょうか。

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みなさま、回答ありがとうございました。

お礼日時:2020/1/5 20:15

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明智光秀と長宗我部を結びつけたのは斎藤利三です。 そして、面白いのは羽柴秀吉と長宗我部を結びつけたのも斎藤利三なのです。 織田信長が長宗我部に「四国切取り次第」という朱印状を与えたのは天正三年、さらに元親の嫡男への「偏諱」は天正六年となります。 それらのことから、「本能寺の変」の謀反理由として「四国説」を挙げられる人がおられるのですが、最近の研究ではあくまでも事後結果ということになるようです。 謀反の理由としての可能性はあるが、理由はそれだけではないというものです。

四国説とは 『長曾我部元親を討伐しようとした信長を 止めるために起こした説』のことを言います。 織田信長と長曾我部元親は昔は仲が良く、 その交渉役として明智光秀が行われることになっていました。信長は将軍家を則った忌々しい、三好を打つべく、長宗我部と挟み撃ちにするために、協力しました。 ただ、三好が次第に信長寄りになっていくと、逆に四国にて大きな力を持ってしまった長宗我部を止めたいと思うようになり、 三好と手を組み、二つの大名で連合軍として 長宗我部を打とうとしました。 その三好と協力すべく、交渉役となったのが 羽柴(豊臣)秀吉でありました。 光秀はそれで、長宗我部攻めをやめてください。まだ仲良くできるチャンスはあります。 というも、当然反対され、 それで起こしたのが本能寺の変だったわけです。 また、長宗我部を攻めるとなった日が決まっていて、1582年6月2日でありました。 その日は、本能寺の変が起きた日でもあり、 これは長宗我部征伐に何か関係があるのではと考えました。 中には「何故、長宗我部攻めの日と合わせたんだ?攻めてる途中にやめた方がもっと時間かかるでしょ」と思う人がいます。 わかりやすくいうと「6月2日に起こさなくてもよかった」ということです。 四国説も可能性があるというだけでわかりませんが、四国討伐の途中に終わらせてしまうと、織田本軍がもっと集まりやすくなり、 負けてしまう可能性があるからです。 秀吉はちょうどその数日後、高松城主・ 清水宗治を自害させ、毛利と講和しました。 なので、交渉できる時間は限られていたと思います。 それに、遅らせてしまうと、信長が備中に行ってしまい、光秀は秀吉らと合流した信長 に負けてしまうと思うからです。 なので、属兵が少なく、 重臣も自分しかいなくて、 軍を率いたり、軍略や知略に長けている武将が自分くらいしかいなかった 6月2日を狙って、本能寺の変を起こしたのです。 また、元親の妻は斎藤利三の親族であり、 光秀は利三のことも考えて反対したか 利三が裏で光秀に止めるように言ったり したのだと思いますね。 とりあえず、四国説が本当だったかはわかりませんが、明智光秀には長宗我部・斎藤利三との関係があったこと。 信長が長曾我部征伐を始めようとしていたこと。 京都に自分しか大軍を率いているものがいなかったこと。 それはとても関係しているということがわかります。

いわゆる四国説というのは、単純に明智光秀が織田から長宗我部に寝返ったという説ではありません。 信長が長宗我部を討伐するようになったことによって、光秀が面目を失い、更には自分も無用の長物扱いされて追放されるのではないかと考え、先手を打って信長を討ったのではないか、という考えです。 信長は当初長宗我部と友好関係を築き、三好氏を共通の敵としており、長宗我部の領土を安堵する事にしていました。そして、織田家の側で長宗我部との窓口を担当していたのが明智光秀でした。 ところが信長は、三好家が信長に降伏すると、手のひらを返して長宗我部氏に対して領土の削減を突き付け、従わないならば討伐する事としてしまいます。 これはそれまで長宗我部家と友好関係を築いてきた光秀の努力を無に帰するもので、光秀の面目は丸つぶれだったと言えます。 当時の武士は面目というものを非常に重視しており、面目を守るためには勝ち目のない戦いに臨む者すら存在していました。 また、織田信長は必要ないと考えると、どのような重臣でもらいきなり追放してしまう事がありました。例えば本能寺の変の2年前には、当時重臣筆頭格だった佐久間信盛が追放されています。 要するに信長は家臣を使い捨てにする傾向があったわけです。 この為、当時の織田家重臣らは、次は自分が使い捨てにされて追放されるのではないかとの不安を抱えていたものと思われます。 そのような状況で、信長は光秀の努力を無駄にし、面目を丸つぶれにするような事をしたわけです。 この事によって、光秀がこれは自分が追放される前ぶれだと感じたとしてもおかしくはありません。 このように感じた光秀が、追放されるくらいならばその前に自分が信長を討ってしまおうと考え、本能寺の変を起こしたのではないだろうか、と考えるのがいわゆる四国説というものです。 いつ自分が追放されるか分からないという、当時の織田家の異常な状況を考え合わせると、この考えには説得力があると思います。 個人的には、光秀は上記の考えに加えて、追放されるくらいならその前に信長を討って、そのまま自分が天下を治めるのを目指した方が良い、と考えて光秀は本能寺の変を起こしたのではないかと考えています。 つまり、私は四国説と野心説の複合が光秀の動機だったのではないかと考えています。

ありがとうございます。 『明智軍記』も佐久間の例を引き合いに出しているようですね。 毛利攻めでよほどひどい負け方しない限りクビにはならないと思いますが、心配になったのかもしれませんね。