プロティノス(AD205~270)は、アレクサンドリア郊外のリュコポリスの生まれ、エジプト人ではないかという説もあります。
新プラトン主義の創設者・アンモニウスに28歳の時に師事、42歳の時にローマに出て、ローマ皇帝ガリエヌスの知己を得てローマで教育に携わる。
弟子に、後にプロティノスの伝記を書いたポリピュリオスとアメリオスを得る。
授業でプラトンとアリストテレスの著作の注釈を講義する。
「美について」「善なるもの、一なるもの」「三つの原理的なもの」「認識する存在とその彼方のものについて」「神のはからいについて」などの著作を著す。
晩年の64歳に癩病(ハンセン病)にかかり、66歳で死す。
だいたい、ブティノスの経歴は上にあげたとおりです。
アリストテレスのプラトン批判というのは、「イデア論」批判で、プラトンは個物、質料(ヒューレー)の上に、最高でもっとも普遍的な概念である「イデア」があると言って、個物だとか質料(ヒューレー)は「イデア」に比べたら真の実在ではない、かえって仮象だと言ったのに対し、アリストテレスは真の実在は個物、質料(ヒューレー)の方にあるので、普遍的な概念である「イデア」は単なる言葉であり、真の実在ではないと言って批判しました。
前者の「イデア」とか普遍的な概念が真の実在だとする考えを「実在論(リアリズム)」といい、後者の真の実在は個物にあり、概念は唯の言葉であるという考えを「唯名論(ノミナリズム)」と言いました。
しかし、この「実在論」と「唯名論」の対立が本格的なものになるのは12世紀からで、古代末期から、中世までは、ローマ帝国が4世紀末にキリスト教を国教と定めてからはアリストテレスの著作は都合が悪いものとしてヨーロッパから追放されて、イスラムに伝わることとなり、以後1000年近くアリストテレスの著作はヨーロッパから失われました。
ブロティノスが新プラトン主義の創設者アンモニウスの弟子であり、しかも宗教心が高かったという事情を考えると、プロティノスがプラトンを熱心に研究し共感を持ったことは充分想像されます。
プロティノスの思想というのは「イデア」「一者」の発出による世界の創造という創造論にあったので、後に同じアレクサンドリアから出てくるアウグスティヌス(AD354~430)がプロティノスの「イデア」「一者」の発出による世界の創造という思想をユダヤ・キリスト教の神による世界の創造というドグマに結び付け、中世キリスト教世界を作ったことからして、ヨーロッパはプラトン⇨プロティノス⇨アウグスティヌスと受け継がれてゆくわけです。
恐らく、プロティノスはアリストテレスのプラトン批判は、みずからアリストテレスの著作の注釈をしているくらいだから、当然知っていたでしょう。
克服したか?と言われると、それはどうかなあ?
とにかく師のアンモニウスの教えを受け継ぎ、プラトンを研究して、新たにプロティノス独自の思想を作ったので、アリストテレスの批判なんかどうでも良かったのではないか?
なぜなら、プラトンとアリストテレスの思想の対決が行われたのは12世紀なんだから。