あなたの質問は「独我論」の問題ではありません。
「独我論」が何だかご存じないのか、あるいは誤解しているのだと思います。
あなたの言っているのは認識というのは主観的で客観性がないのではないか、という認識論の問題で、「独我論」は認識論ではなく存在論の問題で、この世界に他人なんかおらず存在しているのは私ただ一人しかいないのではないかという考えのことです。
他人はみんな「ゾンビ」で、機械であって、他人なんかいないのじゃないかという疑いのことです。
他人は喋るし、コミニケーションも取れるけど、それは人間そっくりの「ロボット」なんじゃないか、というものです。
日本で「独我論」を哲学で主張している永井均はそれを「独在論」とも言っています。
デカルト以来の近代哲学は基本的に「独我論」です。
そこには「他者」の問題系がありませんでした。
「他者」問題を哲学において初めてとりあげたのが、フッサールで、かれの『デカルト的省察』の第5省察でした。
現象学はデカルトと同じように自己意識から出発しました。
意識から出発すると「他我」認識はひじょうな困難にぶつかります。
というのも他人の意識とか、他人の「こころ」というのは私からは見えないからです。
私に見えているのは他人の仕草や振る舞いにしか過ぎず、私たちはその他人の仕草や振る舞いの向こうに他人の意識や「こころ」があるのではないかと、単に「想像」しているだけに過ぎません。
フッサールはリップスの美学からそれを「感情移入」とか「類比的統覚」という用語をかりて、私たちは他人に私の「こころ」を投影しているんだと考えました。
つまり、私の「こころ」を向こう側に場所を変えて「投げ入れている」のだというのです。
だとするとこの世界には「こころ」というのは私の「こころ」一つしかないことになり、他人が存在するとか、「他我」が存在するということは否定されることになり、「独我論」に陥ります。
つまり、この世界に存在するのは私ただ一人、ということになります。
これはひじょうに常識とはかけ離れた考えです。
だって、常識は、私もいれば、他人もいるし、私の「こころ」もあれば、他人の「こころ」もあるというものですからね。
それを「独我論」は、この世界に存在するのは私ただ一人、また「こころ」を持つものも私ただ一人、だというのですから、常識にいちじるしく反します。
フッサールは結局『デカルト的省察』で破綻し、この「独我論のパラドックス」を解決することは出来ませんでした。
ウィトゲンシュタインは初期の『論考』で「独我論」の立場を取っていたことが知られています。
かれは「世界とは私の世界である」といいました。
かれにとって「論理空間」は私の「論理空間」であって、他人がそこに入る余地はありませんでした。
後期の『哲学探究』においてかれは「独我論」を否定したといわれました。
かれが否定したのは「感覚の私秘性」です。
つまり、私の痛みは私だけが知っている、というものに対してそれを否定しました。
かつてデカルトは「われ思う」は確実である、といって知識を感覚の私秘性に基づけました。
ウィトゲンシュタインが否定するのはそのデカルトの考えに対してです。
しかし、ウィトゲンシュタインが「独我論」を否定したかどうかは良く分かりません。
永井均は、むしろ「独我論」を徹底すべきだと最近主張するようになりました。
永井は『なぜ意識は実在しないのか』という本で、もし意識というものがあるとすればそれは私の意識だけであって他人には意識はない、他人は「ゾンビ」、つまり機械だといっています。
ウィトゲンシュタインは「私的言語」を否定しましたが、永井均はむしろ「私的言語」を認めなかったら、言語は成り立たないといっています。
いったい、どっちが正しいのか私は混乱しています。
以上述べたように「独我論のパラドックス」は近代哲学の「スキャンダル」です。
これを抜ける方法はないのか、それが現代哲学にかされた課題です。
次に、あなたのいう「主観を通してしか世界を見ることは出来ない、客観的事実などない」という考えについて。
認識は、確かに主観によって行われますが、だからといってすべての認識は主観的だというわけではありません。
カントもいうように認識は、外界の現象を五官で受容し、それを人間の内的なア・プリオリな「カテゴリー」、すなわち質・量・関係・様相のカテゴリーによって総合することで成り立っています。
その場合の「カテゴリー」組織は人類共通のもので、私もあなたも等しく持っているものです。
それがあるから、認識は主観によって行われるけど、認識されたものには客観性があり、人と人とのコミニケーションも成り立つのです。
すべてが主観的といったら、他人とのコミニケーションなんか成り立ちません。